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『SNS時代のカルチャー革命』竹田ダニエル(2024・講談社)

このスタンレーカップのブームはあくまでも一例に過ぎないが、このように過剰なほどモノとアイデンティティを直接結びつけるような傾向が近年より強く見受けられており、それはサードプレイスの消滅による「繋がりの欠如」から生まれた結果なのではないかと議論されている。

モノにひもづくアイデンティティ

モノといえば、ゴミ屋敷ってのは、あれ、なんなんでしょうかネ。
行政の人が出かけてって「とりあえず少しだけでも片付けませんかッ!?」と断捨離を決行しようとしても、「それはダメ!ゴミじゃないから!」ってなるのは、傍目にはゴミにしか見えないアレやコレやにも、所有者さんなりの「大切な何か」がひもづいているから?


自分じゃない外部の属性に己を規定してもらいたい願望。

みんながぶら下がりたいと思う価値あるモノのひとつにスタンレーカップがヒットした!ってことですよね? これ、モノってとこがミソなの??

モノだろうが概念だろうが、みんな属性が大好きってことだけはわかる。
自分を規定するために区別する。区別の仕方も様々で、いい区別も悪い区別もある。
それ考えると「オレか、オレ以外か」ってのは究極の区別のカタチなのかもしれませんねー。男前すぎ。

逆に世の中に存在するモノで、アイデンティティと繋がってないモノってどんなのがあるんだろーか。・・・・オクラとか砂利とかか?
んでも「オクラ研究の第一人者」とか「石コレクター」って名乗っちゃえば、オクラや石ころにだって特別な意味や属性が生まれちゃうよーな気がするしねえ・・・。

あるモノに何か特別な意味を与えたり、自分とモノとの特別な関係を外部にアピールしたい時に、SNSってのはとっても便利なツールなんだろーな〜って思う。発信する側もそれを眺める受け手側もどっちも楽しいしネ。

ーーーやっぱ私ら、意味を求めてんのかな?

『チ。』でもよく見た。意味を求めてやまぬ人間の姿。

フェニミズムのあたりは読んでもいまいちよくわかんなかった。宗教の絡んだアメリカのSNS宗教談義、難しい。
私も専業主婦だけど、外野のことはあんま気にしないようにしている。今は地域のコミュニティが弱体化してるおかげで、ヨソの奥様方にあーだこーだとめんどくせいコトを言われずにすむのだ。こーゆう点はラクでいいよねって思うけど、人との繋がりがか細く弱々しい現代に暮らしていると、歳とって1人になってからが寂しいんだろうな〜って。想像すると恐ろしくもある。


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