
②『何者かになりたい』熊代亨(2021・イースト・プレス)/ 第2章 つながりが「何者か」にしてくれる?
SNSのようなオンライン空間でも、バーベキューに近い状態は起こり得ます。たとえばお気に入りのインフルエンサーがなにかを言っていて、自分がそれに「いいね」をつけて「シェア」をして、自分に近い考え方の他の人々もどんどん「いいね」や「シェア」をしている瞬間、「自分が何者か」を考える意識よりも、インフルエンサーやそれに続く人々と自分がつながっている意識のほうが強まりませんか?
現在のSNSでは、本当は独りぼっちだったとしても、インフルエンサーを一方的にフォローしているだけで「集まっている自分たち」や「おれら・わたしら」を実感することができます。たとえインフルエンサーから何の返答もなかったとしても、みんなと一緒に「いいね」や「シェア」をしていれば、みんなと近しい間柄のような意識になれるのです。
この後熊代先生は「しかしSNSにも限界はある」とお続けになる。
・近しい間柄のような関係=錯覚
・つながりやすく切れやすい
・つながり維持のための「いいね」「シェア」の乱れ打ち(←スゴイ労力)
・時間・金銭消費増
・ツイッター廃人・ネトウヨの発生 などなど。
地元にしかつながりを持てなかった時代に比べたら現代は随分自由がきくようになった(これはありがたいよネ。いつの時代も「どーしても地元に馴染めないんですう!」って人間が必ずいるもんです。活路)。
オンラインとオフラインが混ざり合った現代においては、各個人がそれぞれに「自分にとって最も居心地よきスタイル」を模索するのが吉だ(たぶん)。群れたいやつは群れるがよかろうし、群れたくないやつは無理に群れんでもよろしい。みんな違ってみんないい。みすゞ。
自由な選択が認められる社会だからこそ、その選択がうまくない人につけこんで利用しようとする人や集団が暗躍するのは必然です。またそんな社会だからこそ、あなたが「何者かである」と実感できる手応えを本当に与えてくれる人や対象をどこまで見極められるのか、「集まっている自分たち」や「おれら・わたしら」を共有でき、長くつきあっていける望ましい集団を見つけたときに、ちゃんとそれを掴んでいられるのかが問われるところなのだと思います。
今はもう「みんな同じでみんないい」の時代じゃない。いろんなことが自由になってなんでもかんでも自分で選べるようになっちゃったぶん、「選択がうまい人」と「うまくない人」の格差が顕著になった。
・・・・最近、こーいう格差をテーマとした漫画読みました。
どの時代にも社会からこぼれ落ちる人って必ずいる(内容が変わるだけで)。現代ではこうだよ、ってのを描いたのが『FACT』なのかなと思う。