私の優しさと私のさじ加減
みんながみんな、其々の正しさで生きている。
それが間違っているかどうかは、取り方次第なのだ。と思う。
正しさとは形のないもので決まりのないものでこうあるべきという信念に近いもので。
そちらがどいてくれればこの狭い道も通れるのに、と思っても相手もあなたが譲ればいいのに、譲るべきなのに、と思っている。としたら正しさとはどこにあるのか。
正しいかどうかよりも私が譲ろう、と思えるか思えないかの話で。
正しさとは正義に見えるがまがい物だ。
其々がこねくり回して持ち続けている思い込みだ。
私もあなたも、どこかの誰かも、同じもののような似たようなものを持っている。
試されるのは正しさではなくて優しさだ。
私が譲ってもいいと思える優しさ。
私が後でもいいと思える優しさ。
こうあるべきだろう!と声高らかに放つ誰かの言葉に頷くかどうかも。
そうだね、それでいいんじゃないかなと言える優しさ。
正しさとはなにかを考えても答えは見つからない。
答えはこうだと思います、と差し出しても違うと誰かが言えば違うものになる。
答えはないものだ。ないから其々が其々に自由に思想し、銘々に個人的な考えとして持っている。
それが正しいかどうかは中身ではなくてどれだけ沢山の人が協賛してくれるかだと思う。
それは正しいよ!と言ってくれる人の数が多いものは正しくて少数派のものは普通以外の何かになる。それを持つ人は変わっている人といわれ、変人だとか視野が狭いとか発達障害なんじゃないかと言われる。そういう世界に生きている。仕方がない。
自分が正しいと思い込んでいるそれは、正しいかどうか誰が決めるの。わたし?あなた?多数派?
だから、正しさを声高らかに放つ人のそばから離れよう。そういうことを言う人がいそうな所には行かないようにしよう。
人を思うさじ加減が多いか少ないか、それだけだ。
正しいことを正しいと思ってしている人には何も言わないで遠くから眺めていよう。
私は私の持ちうる優しさのさじ加減でこの世の中を渡っていこう。
私は優しいときもあればそうじゃないときもある。
席を譲る日もあれば譲りたくない日もある。
ぶつかられて流せる日とそうでない日もある。
愛想笑いさえ難しくなるくらい浮き沈みの激しい日もある。
本来ならできることもしない日もあるし、選択しないこともある。
傍若無人な人だと思えば挨拶も返したくない。
それがさじ加減で、そういうふうに生きるのはやっぱり面倒で一貫性がなくて流動的な自分が、自分がないみたいで嫌いになる。
けれども、明日も明後日も同じことができる気なんてしない。
私のさじ加減が日々同じでないように世の中もそんな風になっているんだろう。
人をチクリとやることに動じない人の刺していった棘などさっさと抜いて楽しいことをしよう。
私は笑って楽しく生きていくのだ。
笑わなくても楽しい日々を送りたいのだ。
意味の分からない正しさを押し付けられて凹んだ心は私はの優しさで埋めてやろう。そうして生きていこう。