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1年ぶりに「投稿しない」ということをしてみて

こんばんはのようなこんにちは、くろだです。

今日のnoteも楽しんでいってくださいな。


先日9月15日を以て「365日毎日投稿」を達成し、「毎日投稿」を終了した。

今日は「365日投稿を終えた感想」でも書いてみようかなと。


何度も言うが、僕の毎日投稿はストックをしてやっていた。

だから執筆を終えた日は三日くらい前だ。

その時に「終わった」と思った。

なんだろう。

この「終わった」は、達成感から来るものではなく、ただ「終わった」という事実を認識した感じであった。

例えるなら、体育祭で不本意ながらリレーの選手に選ばれ、これまでバトンを繋いで来た人が2位だったから2位でゴールしただけで、「1位争いで惜しくも2位」とか「最下位から2位まで上がった」みたいなドラマを生み出したわけじゃ無いって感じ。

なんのおもしろ味も無くゴールラインを跨ぎ、「ゴールした」という事実を認識したゴール。

こみ上げてくる感情は何も無い。


もちろん最初は違った。

「365日投稿達成するぞ」と、意気込んで始めたし、投稿日数が途切れたときは悔しかった。

再度挑戦する時も「今度こそは」と思ったし、100日200日という節目の投稿日数の時は嬉しかった。

だけど日に日に「365日」という投稿日数は現実味を帯びてくる。

300日を達成した時なんて「これまで続けて来たことをあと5分の1やればいいだけでしょ」と考えていた。

「この舐めた考え方をへし折るかのように320日くらいでコケろ」と思った。

しかし現実は、なんのドラマも無くゴールラインを跨いだ。


「365日毎日投稿をすれば何かが見える。」

そんな期待は捨てた方がいい。

現実は「過去に365日投稿をした」という数字だけがあるだけで、何も残らない。


と、なんだか暗い感じになってきたが、あくまで「感想」である。

基本的に僕は捻くれているのだ。

先生が求める「感想」はかわいげのある子どものようなものだけど、僕が持つ「感想」は「感想なんてねぇよ」という想いをつづったものである。


365日投稿を達成しても何も無いよ

あるのは「僕は表現するのが好きだ」という自尊心だけ。

365日投稿の執筆を終えてからXへのポストが止まらない。

くろだのX(フォローよろしくね)

なんかいろいろ書きすぎて「これは消した方がいいな」と思ってツイ消ししたものもあるけれど、そうやって余計なことを書くくらい「文章表現」が好きだ。

だから是非見て欲しいと思い、昨日も「Xでポストしてるので見てみてね」なんてつぶやきをnoteでしようとした。

が、頑張って抑えた。

なぜなら昨日投稿したら「366日」になるから。

連続投稿日数はここで終わらせると決めていた。

そうしないとダラダラ続けてしまうから。

何か目的があるだらけはいいのだ。

再びジャンプをするためには屈伸が必要なように、また動くためにはだらける必要もあるから。

「365日投稿を達成する」

そのためには今日をだらけたとしても「続けた」ことに意味がある。

しかし目標を達成し、次の目標が「連続投稿」ではない今、続けることに意味は無い。

だからなんとしても終わらせる必要があった。


これの是非は各々あると思う。

「続けた方がいいよ」という人もいれば「その決断を尊重する」って人もいるだろう。

僕だって今は「この決断が正しい」と思っているが、明日には「続けとけばよかった」と言ってるかもしれない。

未来がわかればこんな苦労はしなくてもいいのだが、決まった未来があるのなら僕が生きる意味は無い。

そんな機械みたいなことは誰か他の人、なんなら機械がやればいいのであって、僕がやることではない。


僕は表現者である。

この推測が一つ現実的になった挑戦であった。

次は文章表現以外でも、表現者であれるかに挑戦したい。

音声と動画が筆頭候補だね。


以上!くろだでした。

読んでくれてありがとうございました。

スキやコメント、フォローをよろしくお願いします。

ではまた👋


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