批判の感情はnoteにしません!
昨日「山田玲司さんが『葬送のフリーレン』を語っている動画の感想」というnoteを書いた。
そこで「最初見た時は『何言ってんだこの人?』と思った」みたいなことを書いたんだよね。
でも切り抜き動画をチラッと見てみると、山田玲司さんの語り口はだいたい「社会理論」なことに気がつく。
「このマンガは日本のこういう実情を表している」みたいなね。
『葬送のフリーレン』で言うなら「魔法使い」という万能感とそれを隠して生きていく描写は、思うところはあるけれど意見をしない現代人を表しているって感じだろうか。
正直、ここら辺の言い回しはあまり血肉にできていない。
「人の意見」というものはレンズのようなもので、丁度いい度数のレンズをかければ世界がくっきり見え、度数の合わないレンズをかければ世界がぼやけて見える。
黒いレンズをかければ黒くなり、黄色をかければ黄色くなりと、レンズによって見え方が変わる。
僕は「山田玲司」というレンズをかけたばかりで、まだ目に馴染んでいないのだ。
それにこのレンズが僕に合っているのかもまだわからない。
だから言い回しを同じ視点にすることはまだできない。
そのレンズをかけることで目が疲れたり、酔ったりするなら外すしね。
でも山田さんが「マンガで社会を言い表したい」と思っていることはわかった。
だから最初は「何言ってんだこの人?」とアンチな立場にいた僕だけど、noteのネタにするくらいには「おもしろい」と思えるようになった。
僕はnoteで「批判的な記事は書かない」と決めている。
と言いつつ、「BL苦手」とか「クチャクチャ音嫌い」とかって書いてるんだけどね。
何と言うか、「”特定の個人に対して”批判記事は書かない」って感じかな。
昨日のnoteのように、人の名前を出して投稿するのなら、最低限の礼儀は持っておきたい。
「馬鹿なこと言ってるわ」
「『葬送のフリーレン』はそういう作品じゃないから」
「じゃあ見るなよ」って話でしょ。
それに人を批判している僕を読者は待っていない。
人を名指しで批判しない。
批判するならするで「僕の考え」をしっかり書く。
文字数制限のあるXで「レスバ」と呼ばれる罵り合いが起きるのも、「僕の意見がみんなの総意」という意識があり、それを短い言葉で言い表そうとするから鋭い言葉となる。
noteに文字数制限というものは無いので、「僕はこう思う」「なぜならこうだから」「反対意見はこうでしょ」「でもこれが一番いい」みたいに詳細に書ける。
書いてしまえばこちらのもので、あとは読者の読解力に委ねられる。
読めない人は的外れなコメントをして去って行くし、わかってくれる人はよりわかってくれる。
なんだか話が逸れてきた。
最近多いね、こういうの。
「人」というものは難解なもので、一言で表せる人はいない。
そりゃあ「フリーレンの作者さんだ!」みたいなわかりやすいものがあればいいのだけど、みんながみんなそれを持っているわけじゃない。
だから僕は「自己紹介は苦手だ」と言うし、「僕の書いて来たnoteが自己紹介」と言っている。
最近はこういうのって二股に分かれているよね。
多くのコンテンツに「自分」を散りばめて、見れば見るほど「その人」がわかってくるタイプ。
もう一つは「自分」を出さないタイプ。
ゲーム実況者さんってそんな感じよね。
どちらがいいという話ではない。
どちらでも好きな方をやればいいし、見れば理解できる人もいるし、全くわかり合えない人もいる。
わかり合えない人とは関わらない。
批判もしない。
僕はこのスタンスで活動をしていく。
だから山田さんの話を昨日したってことは、結構気になってるってことなのよね。
もし僕が道を踏み外して誰かを名指しで批判する人になったら、できれば止めてくれ。
ただ、無理はしなくていい。
「無理だな」と思ったら、そっといなくなればいい。
自分で気がつくのか、人に言われて更生するか、人がいなくなるまで行ってしまうか。
そもそも「やらない」という選択ができる人でありたいね。
以上!くろだでした。
読んでくれてありがとうございました。
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ではまた👋