見出し画像

『パンセ』 1

今回から、本文に入れます。
紹介しているのは白泉社から出ている由木康訳の『パンセ』です。

わたしは由木康訳にこだわって、この訳文しか自宅にないものですから、それを用いて今回は「note」を書き進めますが、Amazonにて「パンセ」で検索すると、いろんな訳者によるものが出てきます。その良し悪しを、わたしは、ここでは申せません。それは定評のある訳文か、否か…というだけの違いに過ぎないからです。
でも、パスカルの『パンセ』のごとき書物は、和訳の際には、その訳者の「日本語力」が試される、とても邦訳の難しい本だと思われますので、わたしは、特に、みなさまに、ご紹介することを念頭に置いて、由木康訳を選んだ…という経緯もあります。
とりあえず、参考までに、以下、どんな『パンセ』が他にあるのか、リンクを貼っておきますので、ご覧になってみてくださいませ...。

さて、今回から本論に入ります。
「第1編 幾何学的精神と繊細の精神」にて、59項目あります。
長文から、ワンフレーズのものまで、いろいろです。
今回の「1」は、和訳では、2ページに及んでいる長文のものです。
以下、あくまで私個人の独断と偏見にて引用箇所を選定し、これに解釈を加えてゆきます。お許しくださいますように…。

 幾何学的精神と繊細の精神との相違-前者においては、その原理はあきらかであるが、ふつうはあまり使用されない。そこで人はなれないため、その方へあたまをむけようとしない。しかし、少しでもそちらへあたまをむけると、その原理は十分に見える。そして、よほど精神のどうかしている人でないかぎり、ほとんど見のがすことのできないほど大まかなそれらの原理から、まちがった推論をすることができない。

『パンセ』より引用

とても有名な冒頭の出だし部分だが、正直、この「幾何学的精神」と「繊細の精神」について、パスカルの云わんとしていることが理解できるまで、もう少し、引き続き、引用を続けないと、彼が、何を伝えたがっているのか、今のところ、まったく分からない。以下、引用を続けます。

 しかし繊細の精神においては、その原理はふつう使用されており、すべての人の目の前にある。人はあたまをむけるまでもなく、努力するにもおよばない。ただ問題はよい目を持つことであり、これだけはよくなければならない。というのは、その原理はきわめて微妙で多数であり、見のがさないということはほとんど不可能だからである。ところで、ひとつの原理でも見おととせば、誤りにおちいる。だから、あらゆる原理を見るには、よく澄んだ目が必要であり、つぎに既知の原理から誤った推理をしないためには、正しい精神が必要である。

『パンセ』より引用

筆者は「繊細の精神」について説明をしているようですが、わたしは、パスカルの邦訳、その文章を書き写しながら、いったい、どこに読者を連れていきたくて、文章が書かれているのか?が不安になってきました...。

念のため、パスカルという人物、どんな男なのか?を、このタイミングで恐縮なのですが、Wikipedia日本語版にて、リンク、貼っておきます。

さて…引き続き「幾何学的精神と繊細の精神」、引用している私自身が、現在、煙に巻かれている状態の引用作業を、継続してゆきます。

そういうわけで、幾何学者が繊細であり、繊細な人が人が幾何学者であるということのまれであるのは、幾何学者が繊細な事柄を幾何学的にとりあつかおうとして、まず定義からはじめ、つぎに原理におよぶようなこの種の推理の強硬方法でないことをしようとして、物笑いになるからである。精神は推理をしないのではない。ただそれをだまって、自然に、規則なしにする。なぜなら、それを表現するのはすべての人の力をこえており、それを感じるのはわずかな人に限られるからである。

『パンセ』より引用

繊細な精神の人は、それに反して、ひと目で判断するのになれているので、かれらの理解しがたい命題を提出され、そこへ入っていくのにあじけない定義や原理によらなければならないとなると、それらをそんなにこまかく見るのになれていないため、まったくおどろいて失望といや気とを起こすのである。

『パンセ』より引用

 だから幾何学者でしかない幾何学者は、すべてのことを定義と原理によってよく説明してもらいさえすれば、正しい判断者である。そうでないときは、かれらは不正確でがまんがならない。なぜなら、かれらは原理がまったく明らかであるときにのみ正確だからである。
 また繊細でしかない繊細な人は、思弁的、観念的なことがらの根本原理にまでさかのぼるだけの忍耐力がない。そういう原理を原理をかれらは世間で見たことがなく、少しも使ったことがないからである。

『パンセ』より引用

さて…いかがでしょうか…「幾何学的精神」と繊細の精神」について、皆さまのなかで、その理解が深まりましたでしょうか
この章の巻末に、訳注として、次のような文章がありましたので、最後にそちらを引用致しまして、今回は「お開き」とさせて頂きます。

パスカルは精神を二つに分類した。ひとつは論理的な精神で、幾何学はその完全な型を示している。そこではすべてが明白であり、いっさいのものは厳格な秩序によって進行する。他は直感的な精神で、それは感じにより、気分により、心情によって導かれる。この区分をパスカルは友人シュヴァリエ・ド・メレから示唆されたといわれる。後者は、1658年に書いたと思われる前者あての手紙のなかで、そのことに言及している。

『パンセ』より引用

では、またの機会に、お元気で...。

いいなと思ったら応援しよう!

くり坊
サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/

この記事が参加している募集