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パンセ 6

わたしたちは以下の書籍に従って、文章を読み進んでいます。

それでは、本文から引用をして参りましょう。

理知のそこなわれることがあるように、直感のそこなわれることもある。
理知と直感とは会話によってやしなわれ、理知と直感とは会話によってそこなわれる。このように、よい会話や悪い会話は、それらをやしなったりそこなったりする。それをそこなわずにやしなっていくには、えらぶことをわきまえなければならない。ところで、理知と直感とがすでにやしなわれてそこなわれずにいるのであれば、この選択をすることはできない。したがって、このことは循環する。そのなかからのがれでる人はしあわせである。

『パンセ』 6 より引用

訳注に、こうありました。

16世世紀以来、会話はフランスの社交界で重要な位置を占めていた。パスカルは、メレとの交際や、サブレ婦人とのサロンにおいて、その魅力をしみじみと味わったのである。

「理知」や「直感」について、何の前置きもなく、それが「会話」によって養われたり、損なわれたりする…と冒頭から始まるので、何度読み返しても意味不明であったが「社交界」の話となれば納得もいく。

まだまだ社交界デビューしたての未熟な者は、またまだウィットに富んだ発想に支えられた、いわゆる社交向きの話術には慣れ親しむ前であろうから、「理知」や「直感」が養われるには「選ぶ」ことをわきまえなければ…社交的な身の振る舞い、会話術を、良き「見本」となる人物を「選び」、これに真似るのが近道であったことだろう。

社交界に慣れ親しんだ者、すでに「理知」や「直感」が損なわれずにいる者は、もはや選らぶことはできず、今度は見習われる存在となる…これをして「このことは循環する」とパスカルは云っているのであろう。

今回の末尾にある文章が少し気になる。「その中から逃れ出る人は幸せである」とは、パスカルにとっての、社交界への正直な感想なのか、もしくは、常に人の出入りして活況を呈する社交界における人の「循環」に、やや疲れ気味なのか…。

いずれにせよ、社交の場とは、フランスのサロンを引き合いに出すまでもなく、今日に至っても、この手の「理知」や「直感」に才がある者が注目を集め(これを時として人は「人望」と呼ぶ)、辛辣な風評や、冷淡な苦笑、赤裸々な敵愾心(てきがいしん)などを合わせ持ちながら、「人の集まり」とは、好奇の的(まと)となる人物を常に探し求めながら…たとえばマスコミが取り沙汰する「芸能人」の話題などは、現代版「社交界」といったところだろうか…パスカルなら、21世紀の社交界とも云うべき「セレブ」たちのゴシップなどを、どう思うのだろうか?それに嬉々とする大衆という存在と、これを消費者とするマスコミの存在など…16世紀にはなかったものが、21世紀にはある。

いずれにせよ「理知」と「直感」に長けた者であるに越したことはない。


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くり坊
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