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学校イチ怖いお婆さんは、なんの先生だったのか

そのひとは、音楽教諭のはずである。

職員室にいることはなく、音楽室のある4階が住処。第1から第4まである謎の小部屋「音楽準備室」で楽譜の束と過ごしていた。

わたしが中学から高校の6年間を過ごすカトリックの女子校、その門をくぐったころ、お婆さんはすでに60代。はりのあるグレイヘアーは逆に若々しく見えた。

背は小さいが、背筋を曲げることはない。同年代であろうマスール(修道女)、熱気と圧しか感じない男性教諭にも勝る気迫。校長よりも権力を持つ、スクールカースト最上位の最恐教師だった。


このお婆さんは、本当に音楽を教えていたのだろうか。

教科書を開いた記憶はほとんどなく、プリントを糊貼りした聖歌集をお供にすすむ授業。
音階を歌うより、詩を朗読させられる時間のほうが格段に長い。
曲を聴いて絵を書けと言われ、それを評価されるでもなく、ただ楽譜の最後のページに貼り付ける。

グレーのカーペットが敷かれた音楽室で、生徒たちは時間割の半分を正座して過ごす。
わたしたちは正座姿から順繰りに立ち上がって、いかに長く美しく、ラテン語を歌うための巻き舌ができるかで評価される。

受験目前の高校3年生まで、音楽は必修だった。ついでに、選択科目でも音楽を取っていて、部活もお婆さんが絶対的顧問の吹奏楽部。

6年間のうち、4階の音楽室で一体何度このお婆さんに叱咤されたのだろう。
音楽の授業は謎。お婆さん相手に正座でやり過ごす時間を、「花嫁修行」と称する生徒たちもいた。


敵の多い最恐のお婆さんに、たぶん面白がられていた。

元はといえば、仲良くなった先輩が勉学も運動も芸術も得意な万能タイプで、お婆さんをそれこそお婆さんと呼んでしまうような距離感だったから。そのついでに、出来の悪い子分に目をかけてくれたのだろう。

部活の練習をサボタージュして、制服姿で撮ったプリクラを交換していて怒られた日。学校帰りの寄り道は禁止だった、ましてやゲームセンターなんて。

「その制服を着て繁華街に行くことがどういうことかわかっていますか?」「わかりません。」
そんなくだりを経て、なぜか部員全員の前でペナルティとして一曲披露することになる。大してうまくもなかったのに、多分度胸だけでそのまま学園祭公演のソロをもらうことになる。

授業に飽き飽きして、階段の踊り場、友人数名とリコーダーで遊び出す。いかに細かく早いトリルをつけてハーモニーを作れるか、くだらない遊びに興じる。

そうしているうちに音楽準備室に呼び出され、授業では見たことのないバスリコーダーやらソプラニーノリコーダーやらを貸し出され、「練習して介護施設に奉仕活動に行け」と指令が出る。

停学を経てパーマをかけて登校する。
「何かかけたでしょう。」「魔法です。」なぜかお咎めはなく、菓子パンをゲットする。そんな6年間だった。


このお婆さんは何を教えたかったんだろう。

高校生活の集大成は、学年全員で歌うモーツァルトのミサ曲だった。

ミサ曲は何度も歌ってきており、そのためにラテン語の巻き舌を練習させられたのだが、高校3年生だけが歌うこの曲は特別な意味を持つ。
戴冠ミサより、Credo(クレド・使徒信条)。

手元に残っていた楽譜に載せられた、歌詞と和訳の書き出しはこうだ。

Credo in unum Deum,
Patrem omnipotentem,
factorem caeli et terrae,
visibilium omnium invisibilium.

われは信ず、唯一の神を
全能の父、天と地、
見ゆるもの、 見えざるものすべての造り主を。

別に6年ばかり足を踏み入れたからといって、洗礼を受けてもいないし、キリスト教を信仰しているわけでもない。でもこれが、この学び舎でお婆さんが伝え続けた何かの集大成として、一生思い出せる音と歌詞で残っていく。

最恐の音楽教諭、そのお婆さんは、
宗教に限らずとも音楽に限らずとも、不確実な世の中でわたしたち自身が立ち戻る信念とか美とか意識、そういうものを伝えたかったんじゃないか。

女子だけの、神に守られた、安全で窮屈な毎日から。
不安定で不確実、どうしたって切り開けない道や望まない道を強いられるかもしれない世の中へ。

美しい立ち振る舞いとは、
ことばの意図とは、
思いを伝える方法とは、
困難を支える信念とは。

正解がない世の中で、
誰かのために、わたしたちのために悔いのない選択ができるように。

己の審美眼を磨きなさい。

お婆さんが教えたのはきっと、美学だった。



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