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【連載小説】君と創る世界|07

【第四章】残酷な世界(1)

 六時半。
 僕は胸ポケットに忍ばせた指輪を確認して、可琳に告白したあの河原に立っていた。
 約束の時間まであと二十分。
 目の前に流れる川は、静かで、穏やかで、まるで僕を見守ってくれているようだった。
 ほんの少し前、僕たちはここで初めてデートをして、そして僕は可琳に告白した。
 あの日と同じように、ゆっくりと日が傾き、空が茜色に染まり始めている。
 僕は何度も脳内でシミュレーションを繰り返した。
 まずは、もう一度可琳に好きだと言って……それから……。
 心臓がうるさいくらいに鳴り響いている。
 ――大丈夫。最高のプロポーズにしてみせる。

 六時四十五分。
 約束の時間まであと五分。
 辺りを見回してみるが、人影はない。
 さっきとは違う種類の緊張感が僕を支配する。
 心臓は速度を上げ、音は鼓膜の中で大きく響き続ける。
 僕は深く深呼吸をした。

 六時五十分。約束の時間だ。
 スマホの画面を何度も確認するが、可琳からのメッセージは無い。
「場所を、伝え間違えたとかじゃないよな……」
 沈む陽が薄紅の名残を空に残し、辺りは闇へと溶けていく。
 心臓はその速度を保ったまま、冷えた音に変わる。
「それとも、可琳に何かあったんじゃ……」
 僕は『今、どこにいる?』と可琳にメッセージを送った。
 送信済みの画面を凝視する。何度見ても既読にはならない。
 胸の奥に焦りが広がり、電話をかけるがつながらず、焦燥感が一層強まった。
 薄暗くなってきた風景の中、僕は目を凝らして可琳を探す。
 可琳と二人で見るはずだった狂うほどに美しい夕焼け空は、その色をすっかりなくし、辺りは闇に包まれる。

 無情に時間が過ぎる。
 絶望に似た気持ちで呆然と立ち尽くしていた僕の背後から、突然閃光が走る。続いて轟く破裂音が鼓膜を揺さぶり、心臓を撃ち抜いた。
 振り向くと、色とりどりの綺羅きらびやかな花火が、夜空を鮮やかに染めていた。
 花火は僕の心臓を震わせ、次々と散っていく。
 僕は、たった一人でそれを見上げていた。

 可琳にプロポーズして、可琳が照れて俯いて。
 僕が思い切って手を取り、その瞳にもう一度「好きだ」と伝えて。
 そんなタイミングで、僕たちの輝かしい未来の始まりを祝福するかのように咲くはずだった花火。
 僕はたった一人立ち尽くし、眩しいほどの夜空を、呆然と眺めていた。
 空に咲く大輪の花たちは、涙越しに滲んで、輪郭を失っていった。

「また一緒に見ようって、約束したじゃないか……可琳」

 声に出した途端、その言葉は僕の心を締め付け、花火の音とともに夜空に吸い込まれていく。空に咲いた花たちは、あっけなく散り、静寂の中に消えていった。

 花火が終わり、空に静けさと闇が戻ってきても、可琳は来なかった。
 僕は重たい足を引きずり、可琳の家の前まで歩いた。
 玄関の電気はついておらず、窓からも明かりは漏れていない。人がいる気配もない。
 インターフォンを押しても反応がなく、「すみません」と声をあげてみたが返事はない。
 胸の奥に嫌な予感が広がる。僕は扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
 静まり返った家の中に足を踏み入れた僕は、躊躇しながら玄関のスイッチを押した。明かりが灯り、僕は叫ぶ。
「可琳! いるなら返事して!」
 リビングに入った瞬間、僕は息を呑んだ。
 そこには、まるでモデルルームみたいに、生活感の欠片もない部屋が広がっていた。
 部屋には最低限の家具しか無く、そこに住む人の気配というものがまったく感じられない。
 キッチンのシンクはピカピカに磨かれていて、テーブルの上には何一つ物が置かれていない。
 洋室、そして階段をあがって、上にある二部屋も確認してみたけれど、どこも同じように、無機質な空間があるだけだった。
「どういう、ことなんだよ……」
 呆然と呟く僕の声だけが、空っぽの家に虚しく響いた。
 まるで最初から誰もここにはいなかったかのようなその空間は、僕の頭を混乱させた。
 あの夏の日みたいに、可琳は再び、僕の前から突然消えてしまった。

   *

 僕は自宅に戻ると、「ごはんは食べてきたの?」という母さんの問いかけにもおざなりに答え、自室に入るとそのままベッドに身を放りだした。
 何度も可琳に送ったメッセージを確認したけれど、既読にすらならない。
 電話をかけてもつながらない。
 僕はスマホを放り投げ、天井をじっと見つめた。
 遠くから微かに笑い声が聴こえる。母さんがリビングで見ているテレビの音だろう。いたって普通の、いつも通りの夜。なのに、僕だけが一人、この世界に取り残されているみたいだ。

 もしかしたら、また母親に無理やり引っ越しさせられたのかもしれない。
 あの夏の日みたいに、何も言わず、突然に――
 いや、違う。
 僕たちはもう、あの頃のように何もできなかった子どもじゃない。
 それなら僕は……ふられたのか。
 だったらなんで、僕の告白を受け入れてくれたんだ!
 僕の胸に苛立ちが渦巻く。
 結局僕は、からかわれていただけなのか?
 いや、可琳はそんな子じゃない。
 頭を思い切り振ると、ほんの少しだけ冷静になれた。
 そもそも僕は、可琳のことをどれだけ知っていたのだろう?

 僕たちは五年生まで同じクラスだった。
 そう、ずっと一緒だったはずなのに、なんで僕の中の可琳の記憶は、ほんの1ヶ月ほどしかないんだろう。
 その一ヶ月間の出来事は、とても鮮明に覚えている。けれど、それ以外の記憶は欠片かけらすら残っていない。
 僕が可琳を意識していなかっただけなのか? それにしたって五年も一緒にいれば、少しの思い出くらい残っていても、おかしくないはずだろう。
「ああもう……」
 天井を仰いだまま、僕は大きく息を吐いた。
 何もかも、どうでもよくなってきた。 
 結局ここも、僕の居場所じゃなかったんだ。
 脳裏にふと、可琳の声が響いた。

――ハチ、よかったね。

「何がだよ」
 思わず声が漏れた。僕はこんなに苦しんでいるのに。君がいなくなって、いいことなんかあるわけないじゃないか!

――今までありがとう。さようなら。

「なにがさようならだよ!」
 これから始まるんだろ? 僕たちは、これから――!

 脳内に浮かぶ可琳の姿は、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべている。
 何がいけなかったんだよ。僕のどこがいけなかった?
 教えてくれよ、可琳。
 僕はもう、君がいない世界なんて、考えられないんだ。

 目を閉じたままの僕の耳に、やたらと騒がしい音が響いてくる。母さんが観てるテレビの音? いや、この音は、頭の中で鳴っている。
 うるさい……黙れ。もう、ほっといてくれ。
 しかし、その声は徐々に明確な言葉を帯び始めた。かすれた囁きが次第に力強くなり、何かを伝えようと僕を呼び続ける。
 耐えきれず、僕はゆっくりと目を開けた――。

「先生、八幡さん、目を覚ましました!」
 耳元で響く女性の声。その声があまりに近くて、鼓膜が揺れるような感覚に陥った。
 眩しい光が視界を覆い、僕は思わず目を細める。目が慣れてくると、僕を覗き込む知らない男性の顔が見えた。
「八幡洵さん、聞こえますか?」
「はい……」
 僕は普通に答えたつもりだった。でも、その声はぎこちなく、細くかすれた声で、まるで僕自身の声ではないみたいだった。
「僕は……一体……」
 辺りを見回すと、白い天井、静かな機器の音、消毒液の匂い。どうやらここが病院であることは分かった。そして、この男性は医師だということも。
 でも、どうして僕がここにいるのか、まるで見当がつかなかった。
「八幡さん、おかえりなさい」
 医師は優しい声で続けた。
「ここは病院です。驚いているでしょうが、安心してください。……あなたは小学五年生のときに起きた事故で意識を失いましたが、こうして目を覚ましたんです」
 僕は耳を疑った。
 事故? 僕はついさっきまで何ともなかったのに。
 五年生って……一体、いつの話をしてるんだ――これまで僕は、普通に生活していた。
「どういう……ことですか?」
「いきなり全部を理解するのは大変だと思います」
 医師は落ち着いた調子で続けた。
「これから少しずつお話ししますので、まずは体を休めてください。大丈夫、これからどんどん良くなりますからね」
 混乱と疑念でいっぱいの僕は、反射的に体を起こそうとした。けれど、そばにいた看護師さんが優しく僕の肩を抑えた。
「長い間寝たきりだったので、まだ起き上がらないでくださいね。体を少しずつ慣らしていきましょう」
 看護師さんの話を聞きながら、僕はぐったりとベッドに沈み込んだ。確かに僕の身体は鉛のように重く、指先ひとつ動かすのもぎこちない。
 この人たちが言っていることが正しいのだとしても、どうしても受け入れられない。ついさっきまで自宅のベッドにいて、可琳のことを考えていたあの時間は、一体なんだったんだ? 僕が過ごしたあの日々が、夢だとでも言うのか?
 わけがわからないまま、看護師さんたちは手際よくいろいろな検査を行った。冷たい医療機器が肌に触れる感触や、機械音がリアルで、僕に、この世界が夢であるという逃げ道を与えてはくれない。

 一通り検査が終わると、病室に主治医が来て、静かに口を開いた。
「八幡さん、これからあなたに何が起こったのか、お話します」
 僕は息を呑む。
「小学五年生の夏に、あなたは事故に遭いました」
 その言葉を聞いた瞬間、あの夏の日の光景がフラッシュバックする。
 父さんが必死に僕を呼ぶ声。湿った土の感触、重たく動かない自分の体。
「ご両親が、夜になっても帰ってこないあなたを心配して、警察に相談したんです。それで森を捜索したところ、木の根元で倒れている八幡さん……あなたを見つけました。どうやら木から落ちて頭を強く打ったようで……すぐに病院に運ばれましたが、それから長い間意識が戻らなかったんです」
 木から落ちた……?
 主治医の説明に、記憶の断片が薄紙を剥がすように脳裏に現れる。
 あの、大人たちが僕の顔を覗き込むおぼろげな記憶は、きっとこのときのものだ。
「意識を亡くしてから、約十四年の月日が経った今日、八幡さんは奇跡的に目を覚ましました。小学五年生だったあなたは、今、二十五歳になっています」
 主治医の言葉に、僕は言葉を失った。
 十四年? そんなに長い間、僕はここで眠っていたのか。
 二十五歳という言葉が頭の中で何度も反響する。現実だと思っていた世界と同じ歳。だけど、これが現実だと言うなら、僕が過ごしてきたあの日々は、一体なんなのか……。
「どうして僕は……木から落ちたんでしょう……」
 可琳と遊んだときは、木の根元で休んでいただけなのに……
 主治医は、僕の口から漏れた問いに、静かに答えた。
「あなたのそばに、カブトムシが入った虫かごが落ちていたようです」
 その言葉を聞いた瞬間、記憶の断片がパズルのように繋がり始める。
――あの日、大きなカブトムシを見つけて、僕は夢中になって木に登った。
 森の中のひんやりとした空気、木の葉の隙間から差し込む夏の日差し、指先に触れたザラザラとした木肌。
 でも、この日の虫取りは、ただの遊びではなかった。
 あの日、家中に父さんと母さんの怒声が響いていた。その言葉の断片が、砕けたガラスのように記憶の中で散らばり、今も鋭く胸を刺す。
 とても嫌で、怖くて。小さな手で耳を塞ぎながら震えていた。そして、目の前にあった虫かごを掴むと、逃げるように家を飛び出した。
 優しくて仲の良かった頃の父さんと母さん――あの頃に戻ってほしかった。
 僕の記憶の中には、父さんと母さんと一緒に出かけた森の風景がある。
 いつも仕事で家にいない父さんが、珍しく休日に時間を作ってくれて、虫が苦手な母さんも、僕のために笑顔でついてきてくれた。
 森の中でカブトムシを捕まえた僕を、父さんは笑顔で褒めてくれたし、母さんは手作りのお弁当を広げて、みんなで笑いながら食べた。
 そんな、楽しくて、温かくて、幸せだったあの頃の父さんと母さんに戻ってほしくて、僕はたった一人で森へ向かったんだ。
 カブトムシを捕まえたら、二人はまた笑顔になってくれる。僕のことを褒めてくれる。
 そして、きっと家の中からあの怒声は消えて、また笑い声が響くはずだ。

 森で見つけた立派なカブトムシは、高い枝の上にとまっていた。
 僕は夢中で木に登り、なんとかそれを捕まえた。そして、誇らしい気持ちで木を降りようとしたそのとき。
 僕は木から足を滑らせ、体が宙に投げ出された。
 次の瞬間、強烈な衝撃が頭と背中を襲った。息が止まる。全身が痛みに支配され、何も考えられなかった。ただ地面に横たわったまま、じんじんと響く痛みを感じていた。
 どれくらいそこにいたのだろう。
 いつしか空は真っ暗になっていて、僕の名を呼ぶ父さんの必死な声が聞こえた。
「洵! 洵!」
 母さんのすすり泣く声も聞こえる。
 でも、体は動かない。声も出せない。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
 ――覚えている記憶はここまでだ。
 あのときから僕は、ずっと眠ったままだったということ?
 じゃあ東京に出て大学を卒業し、社会人として働いていた僕は?
 とても夢だなんて思えない。それほどに鮮明でリアルな記憶だ。
 こっちの世界の家族は、そして可琳は、どうしているのだろう。
「あの……母はどうしていますか?」
 あの日、僕のすぐそばで泣き崩れていた母の姿が頭をよぎる。
 僕が尋ねると、主治医はうん、と頷いて、少し難しい顔をした。
「八幡さんが眠っている間にいろいろあってね。今、君の身元を引き受けてくれている人は時安さんっていう方なんだけど――」
「時安……!」
 声が思わず裏返る。胸の奥で抑えきれない何かが膨れ上がり、僕はぐっと身を乗り出した。看護師さんが、興奮した僕の体を押さえる。少しでも体を動かすと、頭がクラクラして吐き気がする。
「彼女がいるんですか!」
 興奮を抑えようとしてもうまくいかない。
「八幡さん、お気持ちはわかりますが、どうか落ち着いてください」
 主治医が少し困った顔で続ける。
「時安さんには、八幡さんが目覚めたことを連絡しています。これからこちらに来るそうです。時安さんから、これまでの詳細を聞いてください」
 さっきから鼓動が鳴り止まない。可琳がこちらに向かっていると聞いて、やっと少しだけ落ち着くことができた。
「すみません」と謝り、僕は深呼吸をした。彼女に会える――それだけで、胸の中にあったざらついた不安が、少しずつ和らいでいくのを感じた。

 僕の処置が一通り終わって、病室に一人きりになった。
 僕は周囲を見回す。
 ここは個室のようで、他に人はいない。壁は真っ白で、少し無機質な感じがする。
 僕の頭から外した、ヘッドフォンみたいな機械がサイドテーブルの上に置いてある。これは医療器具なのだろうか。
 自分の体を見える範囲で観察する。腕は驚くほど白く、細い。そして、うまく力が入らない。
 声は出せるようになった。ただ、これまで話していた自分の声と少し違うような気がして変な感じだ。
 ずっと寝たきりだったのはどうやら事実のようだ。だけど、これまで生きてきた僕の人生はなんだったのか、いくら考えてもわからない。
 それでも――こっちの世界にも可琳がいる。
 そして、もうすぐ会える。
 それだけで充分だと、そう思えた。
「あっちの可琳は、こっちの世界にいたのか」
 まだ何がなんだかさっぱりわからないけど、きっとこっちが本当の世界なんだ。
 可琳が約束の時間に来れなかったことにも、何か理由があるに違いない。
 可琳に会える。そう思うだけで、これまでの不安が嘘みたいに軽くなっていく。
 でも……どうして可琳に連絡がいったんだろう。母さんには連絡がつかなかったんだろうか……。
 その考えが、一瞬不安をよぎらせた。
――いや、大丈夫だ。きっと彼女が全てを教えてくれる。
 僕は目を閉じ、深呼吸をした。胸の中のわずかな不安を押し込めて、ただ可琳に会えることだけを考えた。

 ノックが聞こえ、病室のドアがゆっくり開いた。
――きっと可琳だ!
 僕は心を弾ませてドアの方を見た。
 けれど、入ってきたのは僕が思っていた人物とは違う女性だった。
「洵くん、目が覚めたのね。本当によかった」
 優しく微笑むその女性は、可琳のお母さんだった。彼女は落ち着いた物腰で病室に入り、僕のそばに近づいてきた。
「現実では初めまして、ね。私は時安璃花子りかこ。あなたのお父さんと同僚で、親友だったの」
 彼女はそう言いながら、僕の目をじっと見つめた。瞳の奥には優しさだけでなく、どこか深い悲しみが宿っているようにも見えた。
「――目が覚めたばかりで、きっと混乱しているわよね。……そうね、何から話そうかしら。まずはあなたのお父さんのことを――」
「あの、可琳は。可琳は元気ですか?」
 璃花子さんの話を遮るように、僕は急いで問いかけた。
「僕、可琳に会いたいんです。会わせていただけますか?」
 その瞬間、彼女の表情が変わった。
 優しく微笑んでいた顔が、次第に悲しみに染まっていく。
 その表情に、胸の鼓動が早くなる。僕は次の言葉を聞くのが怖くなった。
 璃花子さんは小さく息をつき、視線を落とした。そして、決心したように僕を見つめ直す。
「ごめんなさい。可琳の話をする前に、まずあなたの回りで起きていたことを説明させてほしいの」
 彼女の声は、静かだけれど、どこか震えていた。
「とても辛い内容になるけれど、それでも、これから現実こちらで生きていくために、話さなくてはならないの」


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