中国在住日本語教師のわたしが思う、教師がマウントを取ることの理不尽さについて
世の中には、何の役にも立たないアドバイスをする人がいます。
何の役にも立たないとは言い過ぎですね。ごく一部の人には刺さるかもしれませんが、99.99%の人には役に立たないアドバイスをする人がいます。
そういった人のアドバイスには「意味がない」「通用しない」「価値がない」などの表現が含まれます。
この「○○がない」という言葉がでたら要注意です。
特に、わたしのように外国語の習得を助ける教師が、あなたの日本語は通用しないとか、その程度の努力では価値がないとか、あなたのしていることは意味がないと言うべきではないと考えます。
完璧ではない日本語でも十分に機能しますし、話す日本語が片言であっても相手の心を動かすことだって可能です。
どんな努力にも価値があります。
大事なのは、諦めずに先に進むことであり、短期的な結果に一喜一憂する必要はありません。教師は学習者に勇気を与え、前に進むように助ける。これが理想像だと思っています。
さて、ある人たちは、発音や抑揚などが正確でないと、相手に通じないと言います。
つまり美しい日本語にこだわっています。
確かに、美しい日本語というのは存在します。
しかし、美しさにはいろいろな形があります。
完璧な日本語を美しいと思うのであれば、テレビやラジオのアナウンサーが話す日本語は美しいのでしょう。
でも、ニュースキャスターが完全な発音で伝えるメッセージを聞いて、惚れ惚れとし、その美しさに心がときめく人なんているのでしょうか。
少なくとも、わたしは何とも思いません。
もちろん、日本語を教える者として、アナウンサーの発音は参考になりますし、それを習得するための努力に尊敬の気持ちを持っています。
でも、自分を含め、アナウンサーレベルの発音に到達できなかったからと言って意味がないとは思いません。
日本語を学ぶ人の日本語に、いくらか訛りがあったとしても問題にはならないでしょう。
しかし、どの世界にも「教えたがる人」や「判断したがる人」がいます。
発音の間違いを指摘しまくったり、相手の日本語を評価してけなしたりする輩です。
彼らは、どうしてそんなことをするのでしょうか?
結論から言うと「マウント」です。
自分のほうがスゴいぞと思っているし、相手にも「マジ、パネいですね〜」とでも言わせたいのでしょう。
彼らは、教えてあげるというスタイルを装いながら、自分の自尊心を見たそうとしています。
あなたのためだからと言いつつ、実際には自分の気持ちをなだめているような人に、嫌悪感を感じます。
マウントを取る人が、対等の関係である友人などであれば良いんです。
こちらも、今後の付き合い方を選べますので。
しかし、学校の教員や、職場の上司など、選択できないことはなくても、変更することが難しい相手が、マウントを取るタイプですと困ったものです。
マウントを取られる側は、ストレスフルの状況から逃れることができずに、より辛い気持ちになるでしょう。
自分がたまたま言語を順調に習得できたからと言って、おなじ事を相手に求めるのは理不尽です。
そして、言語に関して言えば完璧である必要はないのです。
わたしのメンターはアメリカ人で、日本語はカタコトです。
でも、彼が日本語で説明してくれたことや、わたしに話してくれたことすべては、わたしに大きな影響を与えました。
しかし、先生の日本語はお世辞にも上手とは言えませんでした。
でも、先生とお話ししていて、日本語レベルが気になったことは一度もありませんでした。
先生が、美しい日本語が話せないから話さないという人でなくて本当に良かったと思っています。
それで、わたしも自分の受け持つ生徒や学習者たちが、自分の感じたことや思うことを、日本語で話す手助けをしたいと思っています。
完璧で美しい日本語を話したければ、アナウンサー養成講座にいけばよいでしょう。それは、わたしの仕事ではありません。
わたしは、日本語で伝えたいことがある人、日本語で何かを受けとりたいと思っている人の手助けをする人になりたいと思っています。
それこそが、わたしの理想の日本語教師です。
ちょっとなんか見たので、自分の日本語教育論について書いてみました。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。
また明日!
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