内田百閒 『ノラや』 中公文庫
生き物を飼ったことがない。子供の頃は生き物が嫌いだった。怖かった。犬猫も虫も爬虫類も魚も嫌だった。たぶん、食べ物の好き嫌いが激しいこととか、風呂が嫌いであったこととつながっている。私の世界はとても小さくて、ちょっとしたことで脅かされてしまうと感じたのだろう。偏食が解消されたり、泳げるようになったりするのと軌を一にするように、生き物に対しても自然に向き合えるようになった、気がする。人に対する好悪もなかなかのものだったが、社会生活に支障のあるほどではなくなった、つもりではある。
陶芸を始めた頃、木工教室にも通った。陶芸で作ったものを収める箱がないといけないと思ったのである。その木工教室には猫がいた。教室にある作品や工具に悪戯をしたらマズイのではないかと思うのだが、よく躾けられていて、そういう心配はなかった。その猫がなぜか私に懐いた。私が作業しているとやって来て、作業台の隅にちょこんと座ってじっと私の作業を見ているのである。作業の合間を見計らって、首を伸ばしてくる。その首を掻いてやるように撫でるとうっとりとした表情をする。それを何度か繰り返すうちにどこかへ行ってしまう。それで、なんとなく猫が好きになった。
余談だが、陶芸と木工とは両立できなかった。生産性がまるで違うので、殊に轆轤で陶器を作るようになると、箱を作るのが全く追いつかなくなるのである。木工を始めて2年ほどしたところで、当時の勤め先を馘になったのを切っ掛けに、出費を抑制するためもあって、木工はやめてしまった。
ついでに犬にも懐かれるようになって、嫌ではなくなった。犬や猫が私に懐くのは、知能が同じくらいだとみられるからだと思う。彼らからすれば、ちょっと身体がデカくて二本足で歩くところが違うものの、同類には違いないと思われているのだろう。その後も生き物を飼うことはないのだが、何かの弾みで犬や猫と行き合うとき、稀にではあるが、明らかに何か話しかけられていると感じることがある。もちろん、犬語も猫語もわからないので、勝手にそう思うだけなのだが。
それで、ノラと内田とのことだが、加齢で心身ともに弱くなったところに、うまい具合に自己を重ねるのに適当な相性の生き物が現れたということではなかろうか。齢を重ねると色々なことが微妙な調子に不自由になる。もちろん病気や怪我で急に不自由になることもあるが、そういうはっきりしたことがなくても、加齢と共に、少しずつ且つ着実に、自覚するとしないとにかかわらず、それまでできたことができなくなっていく。ひとつひとつはどうでも良いことなのだが、いい気分はしない。そのなんとなく嫌な感じが複合重層するのである。そしてなんとも形容し難い微妙な無力感と寂寞感と不安に慢性的に襲われるのである。そこにノラとの出会いがあり、依存の形成があり、突然の別れが訪れて、収まりがつかなくなった。それで、あんなふうになったのだろう。
文面からすると内田はノラに依存している。無条件に内田に信頼を寄せているかのように振る舞う、また、そのように内田に感じさせる存在を通して内田は自己の存在を確認している。既に「大家」として世間に認知され、当たり前に「先生」と呼ばれる身分でありながらも、そういう己の在り方に懐疑の念を拭いきれず、言いようのない不安に苛まれていたのではないだろうか。寄って立つものは己しかなく、しかも、自己の能力のようなものを一歩引いたところから客観視できるほどの才覚があれば、当然に自己の能力に欠けているところや欠けたところが見えてしまうものだ。「作家」として日々創作活動をしていれば、その「創作」の中身は己がよくわかるはずだ。晩年はいわゆる代表作がない。『阿房列車』は立派な作品には違いないが、果たして本人がそれを「作品」とすることに満足していたかどうか。そういう中で出会ったのがノラだったのではないか。「野良猫を野良猫として飼う」などとわざわざ言うのも妙なものだ。餌を与えて「飼う」なら「野良」とは言えないくらい内田自身がよくわかっていただろう。己の何事かを守るために、「野良」という距離感を明示しておきたかったのだと思う。現実にはそんな距離感はなく内田はノラに、ノラに象徴される何事かに、溺れていた。
ノラが失踪した後、2ヶ月ほどでノラに良く似た猫がやって来る。やはり懐いたので、そのまま飼うことになる。これがクルツだ。当たり前だがノラとは別の猫なのだからノラと同じ関係性はできない。生き物には個性がある。その新たな個性と自己との交渉の中で新たな関係性ができあがる。「自己」とは自分を軸に構築された関係性の総体だ。新たな関係性が取り込まれて自己は微妙に変容する。つまり、ノラは内田の一部となっていた。それが失踪したということは自己が突然欠落したということでもある。危機だ。後釜のクルツは、そこから5年ほど内田と暮らす。そして、失踪することなく内田に見守られて寿命を全うする。クルツの晩年は体調を崩して内田をさんざん煩わせたので、内田とクルツの関係性はクルツの衰弱に伴って穏やかに終焉を迎える。内田の方には覚悟ができる余裕があったからノラの失踪の時のような動揺は、たぶん、なかった。
自分とは確たる存在ではなくて、自分を軸に形成した関係性の総体だと思う。一つ一つの関係は、ちょっとしたきっかけから少しずつ育んだものもあれば、降って湧いたようなものもあるかもしれないが、概して時間をかけて醸成されたものだ。だから、その関係性の形成に伴って自分の精神のほうも成長する。試行錯誤を重ねて形成されるので、その間に自分の中で合点のいくものがあり、内発的に何かを会得するのである。そういうのを成長という。外から押し付けられたものを理解も了解もないままに受容することはできない。「話せばわかる」などと言う人があるが、おそらく「話」というものを理解していないのだろう。物事を理解するというのは、食物を咀嚼して消化して吸収して自分の血肉骨とするのと同じことだ。「これがああで、こうで」とうだうだ戯言しか語れないうちは、きちんと理解できていない。
しかし、個々の関係性は永続しない。相手の死とか失踪とか、物理的に姿を消す形で終焉することもあれば、何がしかの対立が深刻化して別離に終わることもあるだろう。関係の相手も生きている。自分の都合の良いように付き合いが続くとは限らない。時間をかけて解消するなり変容するなりすれば、それに対する心構えもできるからどうということもないが、そういう余裕のないままに突然のように終焉するのは自分を構成しているものが欠落することであるから、動揺を免れない。その欠落した関係性の位置付けによっては、自己の存在そのものを危うくするほど動揺する。
おそらく、内田にとってノラとの関係はそういうものだったのだろう。側から見れば飼い猫にしか見えなくても、飼っている本人にしてみれば、そこに見えているのは単なる猫ではなかったのである。ノラが、猫が、内田からどう見えていたのか、内田にとってはなんだったのか、本人にしかわからないことであり、本人にも説明できないかもしれない。なぜなら、関係というのは目に見えないものだからだ。
関係性に溺れることは不幸ではない。溺れる幸せというものがあるはずだ。少なくとも溺れる対象が存在するというだけでも豊かなことだ。本書を読んで、百閒先生壊れたな、と思った。同時に自分はマズイことになるかもしれないな、とも思った。この歳になっても嫌いなものばかりで、好きなものがあまり無いからだ。あれが嫌だ、これが気に入らない、などとくだを巻いて、周囲からは疎んじられ、そのうち病院のベッドで管に巻かれて最期を迎えるのだろう。