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茨木のり子 『詩のこころを読む』 岩波ジュニア新書

以前、何かの記事でNHKのアナウンサーだった山根基世さんが座右の書として本書を挙げていたのを読んで購入した。奥付に2012年2月3日第72刷発行とあるので、その頃のことだ。

私は2011年12月から2012年4月半ばまで失業していたが、失業前も現在も他人の書いたものに朱を入れる仕事をしている。そういう所為もあって、言葉というものに興味がある。また、そういう仕事で生計を立てているのだから、少しは勉強もしないといけないとも常々思っている。それで、言葉の専門家が座右の書として挙げていることを知ってしまった以上、読まないわけにはいかないと思ったのである。

先日、『悪の華』を読み、そのことをnoteに書く段になって、少し困った。しょうもないものを読んでしまったと思い、口直しのようなものを読みたいと家の棚を探した。ちょうどこの本が目についたので、ざっと飛ばしながら通読した。最初に本書を読んだ時、茨木のり子という人が詠む詩も読んで見たいと思ってハードカバーの詩集(宮崎治編『茨木のり子全詩集』花神社)を買った。詩としての良し悪しは私にはわからないが、背筋がピシッと伸びるようなことが書いてあった。本当は、詩とはそういうものだと思う。「詩」として世間に公表するからには、読む人の心に何か建設的な作用をするものでなければ価値がない。

本書は人の生命史・生活史の段階に応じて、茨木が詩を選んで何事かを語るという形式になっている。
1生まれて
2恋唄
3生きるじたばた
4峠
5別れ
という構成だ。収録されている作品はどれも紹介したいくらいなのだが、ここでは今の自分に一番しっくりくるものを挙げておく。

「生まれて」では吉野弘『消息』から「I was born」。

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いて行くと 青い夕靄の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて世に生まれることの不思議に打たれていた。

女はゆき過ぎた。

少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
 —やっぱり I was bornなんだね—
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
 —I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね—
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
 —蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね—
僕は父を見た。父は続けた。
 —友人にその話をしたら 或日、これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると、その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは—。

父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく僕の脳裡に灼きついたものがあった。
—ほっそりした母の 胸のほうまで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体—。
9-12頁

「恋唄」では新川和江『比喩でなく』から「ふゆのさくら」。

おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる
75-76頁

「生きるじたばた」では川崎洋『祝婚歌』から「言葉」。

演奏を聴いていなくても
人は
♪を耳の奥に甦らせることができる
言葉にしなくても
一つの考えが
人の心にあるように

むしろ
言葉に記すと
世界はとたんに不確かになる

私の「青」
はあなたの「青」なのだろうか?
あなたの「真実」は
私の「真実」?
100-101頁

「峠」では河上肇『河上肇詩集』から「老後無事」。

たとひ力は乏しくも
出し切ったと思ふこゝろの安けさよ。
捨て果てし身の
なほもいのちのあるまゝに、
飢ゑ来ればすなはち食い、
渇き来ればすなはち飲み、
疲れ去ればすなはち眠る。
古人いふ無事是れ貴人。
羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。
204-205頁

「別れ」では岸田衿子『あかるい日の歌』から「アランブラ宮の壁の」。

アランブラ宮の壁の
いりくんだつるくさのように
わたしは迷うことが好きだ
出口から入って入り口をさがすことも
228頁

自分がなぜここに挙げた詩を選んだのかとか、これらの詩に何を思うのかとか、そういう余計なことは書かないほうがいいに決まっている。

でも、書いてみたいこともある。一度だけ恋煩いをしたことがある。結構な年齢になってからのことだったが、その人のことを思うと食事も喉を通らなくなり1ヶ月で8kgも体重が落ちた。たまたま彼女が好きだと言っていた詩が本書に収載されている。

助言
 ラングストン・ヒューズ 木島始 訳

みんな、云っとくがな、
生まれるってな、つらいし
死ぬってな、みすぼらしいよ—
んだから、摑まえろよ
ちっとばかし 愛するってのを
その間にな。
79頁

本当に病気に罹ったように誰かを思うことがあるんだということを知ったのである。しかし、そういう相手とは結ばれることはないし、結ばれてしまうと思いが深い分、後に続くであろう諸々の悲劇性も大きくなる気がする。思い焦がれて身を窶すくらいでちょうどよかった、と思うより他に今はどうすることもできない。

見出しの写真は東海道線の根府川駅。茨木の詩「根府川の海」に因んだつもり。撮影日は2022年3月19日。

根府川の海

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たつぷり栄養のある
大きな花の向こうに
いつもまつさおな海がひろがつていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通つたことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていつたこともある

燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かつたふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在つた

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だつた歳月
うしなわれたたつた一つの海賊箱

ほつそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ツパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て
宮崎治編『茨木のり子全詩集』花神社 21-22頁

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熊本熊
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