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内田百閒 『立腹帖』 ちくま文庫

鉄道に纏わる随筆を集めたもの。腹を立てたことばかりを書いたものではない。個々の作品の元になっている出来事は他の随筆とも重なっているので、読んでいて既視感を覚えるものが多い。それで「もういいや」と飛ばしてしまうのは素人の文章で、内田百閒の文章ともなると何度読んでも飽きることはなく、時に新たな発見もある。それが作家の文章、と言ってしまえばそれまでだが、作家とか文筆家とか呼ばれる人は世界の捉え方が常人とは根本的に違うのだろう。本書の解説で穂苅瑞穂がこんなことを書いている。

あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
- 辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。(「当世漫話」)
(294-295頁)

「真実」とは何か、という話になるのだが、自分自身の脳の中で創り上げられたものを、あたかも誰にとっても同じであるかのように無造作に信じ込んでいる人が多い気がする。「私」の世界は私だけのもので、そこで認知されている事象について誰かと語り合えば、何となく話が通じるので、相手も同じものを見ていると思いがちだが、それを確かめることはできないのである。明らかな相違を指して「誤解」と称したりするのだが、そこに何事かの解釈が行われた結果であるので、「誤解」は「理解」の一形態だ。自他の別がある限り、世界観の相違は当然にあるわけで、それを超えて恒久的かつ友好的にわかり合おうなんていうのは儚い夢想だと思う。

たまたま先週の土曜日に所用で高田馬場にある日本点字図書館を訪れた。通りに面した外壁にたくさんの金属製の鎖がぶら下がっていて、一見したところ「ちょっと危ねぇなぁ」という雰囲気だ。しかし、晴天だが時折風が強く吹く日で、鎖が風に吹かれてぶつかり合い、サラサラと音がした。そうか、視覚に障害がある人にでも鎖の音で存在がわかるのか、とその時は思った。しかし、風が吹くとか地震で揺れるとかしなければ音はしない。ただ、音はなくとも鎖の質感というか、何か異質なものがあるという気配は感じられるかもしれない。設計は鈴木エドワードだが、鈴木エドワード設計事務所のウエッブサイトには同図書館は紹介されていない。適度な音で存在を示すための鎖なのか、別の意図があってのものなのか、私は知らない。

これも偶然だが、最近、「ほぼ日」で操上和美、養老孟司、糸井重里の鼎談が掲載されていた。その中で、養老孟司が視覚について話をしている。

養老 だいたい人間ってのは、目で物を見てないんですよ。
糸井 目で見てない?
養老 目っていうのは、網膜に映った像が一次視覚野という、脳みそのうしろあたりに来るんです。位置関係もそのままで来る。ところが、一次視覚野に入ってくる網膜からの入力は1割程度なんです。あとの9割は脳の他の部分から来る。
操上 ほほう。
養老 だから目で見てる部分は、ほんとうは全体の1割しかない。つまり、われわれは目というより、脳で物を見てる。
操上 そうか。目はただの窓。
養老 そうですね。
糸井 じゃあ、小さい窓ですね。
操上 小さいけど広がってるからね。視野というのは。
糸井 脳が埋めてるわけですね。それ以外の情報を。
養老 寝ているときの夢は、目からの入力がないのに、ものすごくシャープに見えるときがありますよね。
(03 「目はただの窓。人間は脳で見ている。」2021年12月17日公開)

この会話を受けて操上和美は写真家が何を見て写真を撮影しているのかということについてサラッと触れている。

操上 カメラマンも同じですよ。やっぱり、目で物は見てないよ。
養老 そうでしょうね。9割は頭のなかで見てる。
操上 ときどき撮影中に「カメラで見てどうですか?」って聞かれることがあるんだけど、「いや、カメラで見てないし」と思うよね。いきなり反発しないけど、内心は。
糸井 あぁ、あぁ。
操上 カメラで見られるなら楽ですよ。いいカメラで撮ればいいんだから。
でも、そうじゃないでしょう。カメラはただの最終的な道具だから。
糸井 いまのカメラってモニターがあって、「こう撮れますよ」っていうのが見えてる状態で撮ることができますよね。
操上 うん。
糸井 それは、そのモニターに写るものが情報のすべてになるってことだから、ファインダーをのぞくのとは、全然ちがう変化になりますね。
操上 だから、ファインダーのぞきますよね。やっぱり。
糸井 のぞきますか。
操上 ファインダーをのぞいたほうが、じぶんの視野として、こう、コントロールしやすくなりますね。モニター見ても撮れますけど、セッションっていう感じにはならない。

素人が撮影する写真と職業としての写真家が仕事とか作品として撮影する写真の違いが何となく了解できる。

文筆家も写真家も職業表現者なのだが、表現するものをどう創るか、つまり世界をどう見るかという環境認識のそもそものところが常人とは全く違うのだと思う。内に温めたものが違うのだから、それを文章に起こしたり映像として切り取ったりすれば自ずと「作品」と呼ばれるものになるのである。

内田の作品の中で『ノラや』が他と違うのは、内田による執拗な校正を経ていないことだそうだ。内容が内容なので、読み返すとノラのことを思い出して取り乱してしまい、他の作品で当たり前にするように読み返して朱を入れることができなかったのだという。あの作品を読んで私は、百閒先生壊れたな、と思ったと書いた。それは内容のこともあるけれど、本人の校正を経ていない完成度という所為もあったのだと思う。つまり、「真実」になりきっていないのである。

ところで、鉄道80周年記念行事の一環で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のことを『第三阿房列車』のところで長々と書いたが、駅長に選出された経緯や、当日に突然駅長を辞任して特急「はと」に乗って熱海まで行ってしまう企てのことが本書に書かれている。本書の解説(穂苅瑞穂)の後に中村武志氏が「阿房列車の留守番と見送り(抄)」という文章がある。中村氏は『阿房列車』の中で「見送亭夢袋」として登場する元国鉄職員で、平山三郎氏(『阿房列車』で「ヒマラヤ山系」として登場)の上司でもある。その中村氏の文章の中に内田が東京駅の一日駅長を務めることになったことを国鉄の側から書いた箇所がある。これらを読むとあの訓示の解釈も違ったものになるし、内田が鉄道の記念行事で東京駅の一日駅長になったということが読者である私の中で以前よりも立体的に認識される気がする。月並みではあるが、やはり人の話は聞いてみるものだと思うし、自分の第一印象と理解とを区別しないといけないという反省も生まれてくる。簡単にわかったような気になっていると、自分の世界は広がらないという当然の現実を突きつけられたような気分だ。


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熊本熊
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