本書は内田百閒の随筆集として最初のものだそうだ。初版は昭和8年10月に三笠書房より刊行されたとある。昭和初期の随筆ブームの先駆けとなった作品らしい。古い作品を読むといつも思うことなのだが、人の考えることというのは多少時代を遡ったところでそれほど変らない。それは『徒然草』(岩波文庫)を読んだときにも感じたし、モンテーニュの『エセー』(岩波文庫)を読んだときにも思った。時代と共にテクノロジーをはじめとして様々な変化が絡み合って生活様式が変容してきたが、新たなテクノロジーを考案するのは人間だし、変化したと言っても人間の暮らしであることに変わりはない。その変化を積み重ねた先に何があるのか知らないが、少なくとも「永遠」だとか「普遍」といったものは無いような気がする。これまで地球上に誕生した生物種の99.9%は絶滅したという。人間だけ例外になり得るほど特別賢いようには思われない。
その人間の暮らしを特徴づけるもののひとつが貧富へのこだわりだと思う。世界の人々が文化の違いを超えて交渉するには、そうした違いを超えて通用する尺度が必要で、それには数の多寡がわかりやすい、というのは確かなことだろう。しかし、それは方便であって、いわゆる価値観が全て数字で表現できる性質のものではない。ただ、数字や言葉で表現してしまうと、その表記が元の観念から乖離して独り歩きをするのは致し方の無いことでもある。
内田の書いたものには金銭の貸借に関わるものが多い。それだけを集めて『大貧帳』という立派なアンソロジーができてしまう。同書に収載されている「大人片伝」「無恒債者無恒心」「百鬼園新装」は本書に所収されている。その「百鬼園新装」にある記述については前にも少し触れたが、改めて考えたい。
戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人は生まれようと思って生まれるのではない。気がついたらここにいるのである。しかし、当然の如く「人権」などと称して己の権利を主張する。意志なく存在するものに主体性はなく、主体のないものが権利を主張することはできない、はずだ。しかし、現実には権利義務は当然に認められ、それにまつわる紛争があれば文明社会においては裁判所なるところにて衆目の下に紛争当事者の権利義務が規定され、その遵守が要求される。つまり、我々の社会なるものは丸ごとフィクションだ。実体はないが、「そういうことにしておこうな」という合意の上に成り立っている。当然、その合意に違和感を覚える人はいるし、力づくで反抗する者もある。
いわゆる価値なるものも合意だ。高いの安いの多いの少ないのと不平不服を述べたところで、少数意見は通らない。「働けど働けど」暮らしが立たないのは自己責任だ。うまく立ち回らないと負の連鎖を断ち切ることはできない。世間の合意に迎合するように生き方や考え方を改めないといけない、ことになっている。「幸せ」とは合意に対する納得である、とも言える。合意を受け容れる度量とも言えるだろうし、合意する覚悟とも言える。それで、幸せ?
本書の「梟林漫筆」という章にこんな一節がある。
戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人情とは何かということは置いておいて、他人へのとりあえずの敬意とか情を抜きに自分の生活の安寧というものは成り立たないと思う。所有権を得たからというだけで、それまで心易く付き合っていた隣人に店立てを食わせることが当たり前にできてしまうようなところで生活ができるものではない。他人への敬意は他人に対してあれこれ想像力を働かせる手間と労苦なしには生まれない。それは生きる上で当然の負荷だ。お互い、生まれようと思って生まれたわけではなく、たまたまここに居合わせているのだから、とりあえず仲良くしたらいい。それが互いのためだ。そのためには相手を思いやる程度の想像力がないといけない。他者と折り合いをつけるには自分に想像力を働かせるに足る知的能力が必要なのである。実際の能力というよりは、心がけだ。そういうものへの肯定が内田の文章の底に流れていると感じるのである。
冗長になるのを承知で書き写しておきたい箇所がある。同じく「梟林漫筆」の一節で高校時代の先生が亡くなった時のことである。
「徳義上の野蛮人」という言葉に私は動揺した。