鈴木大拙 『日本的霊性 完全版』 角川ソフィア文庫
2016年3月12日に日本民藝館で岡村美穂子さんの講演を聴いた。岡村さんは鈴木大拙の秘書を務めていた人で、講演当時は鈴木大拙館名誉館長という肩書きだった。その講演を聴いた時に書いたノートを読み返したのだが、岡村さんの矍鑠とした印象以外に記憶がない。内田百閒流の「リアリズム」に当てはめるなら、私にとっての岡村さんの講演は矍鑠としたその姿の記憶だけということになる。しかし、このことに私は感心している。鈴木大拙という人物を語るのに、その秘書を長年務めてこられた人が矍鑠と講演をした、ということだけで必要十分だと思うのである。
本書の奥付によれば、本書は2010年3月25日初版発行で、手元にあるのは2022年12月30日に発行された35版だ。原書は1944年12月初版出版、1946年3月再版発行、本書の元になっている新版が1949年発行とある。元が戦争中の発行なので、鈴木は敢えて「霊性」という言葉を用いているが、一般的には「精神」と称されているもののことである。軍部が「日本精神」とか「大和精神」のような「精神」の用い方をしていたので「霊性」としたらしい。本書の最初の方で鈴木が「霊性」と「精神」の区別を書いている背景にはそうした時代状況がある。
本書は1944(昭和19)年当時に軍部や世間が戦意高揚のために流布させていたような標語の類を否定し、そこで使われていた用語の本当の意味を解説することを意図したものらしい。だから、一読すると用語解説のような印象を受ける。「霊性」と「精神」の区別についても、だから何なんだ、と思うような書き方なのだが、それは書かれた時代の背景を思えば、そういうことかと了解できる。
霊性と言おうが精神と言おうが、内面のことは言葉にするときれいに消えてしまう。何も言わないのと結果は変わらないことの方が多いくらいだろう。通じ合うことのできる相手には、言葉ではなく行いで通じるものなのだろうし、通じない相手には、言葉を尽くしたところで、何も通じないものだ。通じたところで、どうということもないのだが、そもそも人一人の「自己」だの「己」だのというのは、どうというほどのことではない、と思う。本来どうというほどのこともない自意識が肥大すると、本人にも周りにもロクなことにはならない。
本書の終わりの方にこうある。
さんざん文章を書き連ねた果てにこう書かれてしまうと、今までのは何だったのか、となるかもしれない。結局、霊性と呼ぼうが精神と呼ぼうが、内面のことは言語化すると別のものになってしまうのである。ただ、言語であれ具体的な人物の立ち居振る舞いであれ、具象化したものを目の当たりにして、何事かを覚らないことには思考は始まらない。「悟りは覚りである」としか言いようがない。
「不立文字」という言葉がある。この「「不立文字」という言葉ある」という一文は矛盾に満ちているのだが、しかし、そうとしか言いようがない。言葉というものは何なのか。何事か自分の考えたことを言語化した時に、どうしても伝わらない、言語を超越というか、言語から零れ落ちてしまうというか、言語化困難なことがある。だから、言葉にした途端に、その言葉で表現したいこととは別物になってしまうのである。そして、その言葉自体も、それが置かれた文脈から取り出してしまうと別物になる。これは人間の記憶のメカニズムとも関連しているようだ。
前回の記事に中井の『私の日本語雑記』から引用した箇所がある。
言葉にすると確かなものになるとの幻想があるが、現実は逆で、言葉にすることによって、その言葉によって表現しようとしたものから離れて「不安定化」して独り歩きを始めてしまう。言葉を発したところから遥か彼方へ遊離してしまうことさえある。鈴木が本当は何を考えたのかわからないが、「日本的霊性」なるものを言語で語ろうというところにそもそも無理がある。しかし、その無理を鈴木はわかった上で書いたのだと思う。