内田百閒 『東京日記 他六篇』 岩波文庫
何かの対談記事だったか講演だったかで俵万智が歌は順番が大事だと語っていたのを思い出した。30とか50のまとまった数の歌を投稿したり、連歌を詠んだり、歌集を編むときのことだ。順番を変えることで全体も個々の歌も変わったものになるというのである。
「朝三暮四」は「目前の違いにばかりこだわって、同じ結果となるのに気がつかないこと」の意で用いられる言葉だが、「朝に三つ、暮れに四つ」と「朝に四つ、暮れに三つ」では大違いということが生活の中にはある。
音楽のアルバムがレコード盤だった時分には、曲順はとても大事だった。それは今でも、例えばコンサートでの演奏順とかMCのタイミングといったものにも言えることだろう。ビートルズの『サージェントペパー』が名盤とされるのはあの曲順でしか成立しないアルバムであるからで、『レットイットビー』が「名曲」が並んでいても「名盤」にならないのは、、、こういう話はやめておこう。
内田百閒を小説から入るか随筆から入るかで、内田という作家に対するイメージは全く違ったものになる気がする。私はたまたま最初に手にしたのが『大貧帳』で、戦中戦後の日記、追悼文と続いた後に小説を読んだ。今だから随筆から読み始めても結果は然程違わないかもしれないが、若い頃だったら全然違ったものになったかもしれない。随筆や日記を読んで形成された自分の中の「内田百閒」があり、その上で小説を読むと、何となく、この人ならこういう作品を書くだろうと納得する。また、そういう所為でこういう作品が愉快に感じられる。
今、思い出したのが司馬遼太郎で、江戸から明治にかけての実在の人物を主人公に据えた一連の作品は若い頃にワクワクしながら読んだ。そして「日本人」というのは大したものだと思い、そこに自分を重ねてみたりもした。しかし、随分ポンコツになった今になって同じ作品群を読んだとしても、娯楽作品としか思えないだろう。個人を「ヒーロー」っぽく描くとどれほど検証を重ねた上での作品であったとしても漫画にしか見えない。ただただ嘘臭さが鼻を突くだけになってしまう。
人との出会いも同じだろう。血縁というどうしようもないものは置いておくとして、知人友人との出会いには順の妙のようなものがある気がする。時間を巻き戻すことはできないので検証は無理だが、この順番で出会ったから助かったこともあれば、トンデモないことになってしまったこともあるだろうし、順番を変えても同じかなと思うようなこともあるだろう。しかし、考えてみれば、人との出会いとは自分の時間の使い方、生き方でもある。現実は一回こっきり。順番というものは変えられるようで変えられない。だから時々刻々真剣に生きなければならない、と今思った。同時に、手遅れだと悟った。
ところで本書のことだが、どの作品も誰にでもありそうな日常の、ちょっとしたところを膨らませたことで生じる奇異を描いている、とでも言ったら良いだろうか。人は誰でも少しオカシイのである。