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高階秀爾 『ピカソ 剽窃の論理』 ちくま学芸文庫

「ほぼ日」の記事で高階のインタビューを読み、本書に興味を覚えて早速古本を購入して読んだ。

自分自身は創造性というものが無いのでいわゆる「ゲージュツ」とも縁遠い。縁遠いのに、なぜか陶芸を始め、先生から「とにかく何でも見る」ようにとの助言をいただき、意識して見て回るようになった。特に、仕事の関係でロンドンで暮らした1年半ほどの間はほぼ毎日のように美術館や博物館に足を運んだ。彼の地では、大英博物館もナショナル・ギャラリーもV&Aも企画展以外は無料で、しかも週に1日か2日は夜9時まで開館しているので仕事帰りに寄ることができる。各施設の間で夜間開館日が重ならないので、通勤の帰りにこれらのいずれかに立ち寄ることが日課になった。

それまで絵画に特段の興味がなかったので、例えばナショナル・ギャラリーならば、初めに足を運んだのは誰もが知っている印象派前後の時代の作品が展示されているコーナーだった。どのような作品であれ、ナマの力というものは凄いもので、眺めているうちに自然に惹きつけられてしまうのである。そのうち、なんとなく足が向く作品が時代を遡るかのように古いものへ古いものへと変わるのである。半年もするとお気に入りは15世紀頃の作品に集中するようになった。例えば、アンドレア・マンテーニャとかピエロ・デ・ラ・フランチェスカとか。同時代でもレオナルド・ダ・ヴィンチにはそれほど惹かれないが、ヤン・ファン・エイクは好きだ。

それでピカソだが、たぶん世間一般ではキュビズムの作品が取り上げられることが多いのだろう。ナショナル・ギャラリーにあったのもそういう作品だった。美術史的には具象から抽象への画期の一画を成す重要なものなのかもしれないが、私の生活にとって美術史はどうでもいい話だ。身近なところではアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)の常設にキュビズムではない作品(サルタンバンク)があるが、あれは嫌いではない。しかし、私にとってのピカソはなんといっても足なのである。

以前に東博で見た空也像のことを書いたが、私は他人の脚とか足が妙に気になる質だ。ピカソといえば、自分の中ではキュビズムではなく、力強い足(脚ではなく)の表現だ。

ピカソの足との出会いは2008年頃にロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(RA)で観たピカソの企画展だった気がするが、今となっては記憶があやふやだ。はっきりしているのは、その前後にパリのオランジュリーで観た女性の裸体の足だ。オランジュリーと言えばモネの睡蓮で有名だが、私にはあんなものはどうでもいい。地下の細長い展示室にあるピカソの足の裸体像やルソーの絵の不思議な世界、アンドレ・ドランの妙に目がはっきりした人物たちに心躍ったのである。ロンドンとパリとは、言葉の違いさえ気にしなければ東京と大阪を往復する感覚で行き来できる。言葉の違いが気になる質なので、パリには数えるほどしか訪れたことがない。

2009年の新春か立春の時分、ロンドンから帰国した直後、たまたま渋谷のBunkamuraで「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」という展覧会を観た。そこに出てたのだ。足が。しかも、その絵には女性の裸体が二人描かれていたので、足も四つ。ピカソの足、すげーなーとの記憶があるうちのことだったので、ここで自分の中にピカソ=足と刷り込まれた、のだと思う。今から思えば、だが。

それで本書のことだが、要するにピカソの絵の多くに和歌の本歌取りのようなことがあるという話だ。これについては、はぁ、そうですか、としか言いようがない。

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