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ルイス・フロイス著 松田毅一 川崎桃太 訳 『完訳フロイス日本史 豊臣秀吉篇』 中公文庫 第四巻から第五巻まで

プーチンがドイツにいた頃
俺はプー太郎で
兄貴はプーさんだった
近所にプーシキンがいて
朝昼晩シーチキンを食っていたっけ
飼っていたプードルは
毎日カップヌードルの蓋を集めていた
わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ

2015年12月に佐賀にある名護屋城跡を訪れた。そこを目指して行ったのではなく、別件で佐賀を訪れた際についでに立ち寄ったのである。博物館があるものの、それがなければ日本最大級の城郭があったとは思えないほど静かな場所だった。何故、秀吉が大陸進出を図ったのか、本当のところはわからないが、朝鮮出兵は関白秀吉の実質的な最後の事業だった。

秀吉については歴史はもとより文学や映像作品など様々な分野で取り上げられているので、名前くらいは知っている。しかし、どのような人物かというと全く知らない。歴史上の人物というのはそういうもので、巷に流布している情報から勝手に想像した人物像が脳内を闊歩しているものだ。それで何事かを分かったつもりになっているが、あくまで「つもり」であって、会ったこともない相手のことなどわかりようがない。毎日顔を合わせている相手であっても怪しいのが現実だというのに。

この「つもり」を創造するのが大衆社会を動かすことであって、政治も宗教もその他の商売も「つもり」を創造することが本義なのだろう。そんなことはともかくとして、本書の4巻と5巻は本能寺後の秀吉の時代を記している。

前回の本書についての記事にも書いたが、本書はイエズス会の布教資料である。とはいえ、書いているのはその時代その場所に生きた生身の人間なので、ペンを握って記録しているヒト・モノ・コトに対する感情はどうしたって文章に表れる。織田信長篇と比べると、秀吉の治世は様々な起伏に富んでいたようで、また、一武将であった人物が天下人に一気に上り詰める様子は刺激的であったようで、フロイスの筆はそれまでにも増して饒舌になり、「布教資料」の側面が遠のいて個人の日記的な色彩が濃くなっているように感じられる。

本書に限らず、秀吉はエキセントリックな人物として描かれることが多い気がする。どのような組織や社会であれ、大小諸々の関係を制し、集団の長に上り詰めるような人物の本性が万人に丸わかりのはずがない。その得体の知れない感じが本書では躍動している。フロイスに身近なキリスト教徒の動静が細かに記述されることで、彼等を動かしている権力の主やその雰囲気のようなものが自ずと醸し出されている。

その現場から400数十年の時を隔てると、その得体の知れない感じの背景に秀吉の戦略思考が見え隠れする、気がする。本書によれば、キリスト教徒は信長の時代から秀吉の時代のある時点までは厚遇されている。安土城の敷地内部に大規模な教会の建設が許され、実際に建設されたようだ。秀吉が安土城を上回る規模と内実を擁する大坂城を建設する際には、やはり大規模な教会の建設が許される。しかし、秀吉がキリスト教勢力を厚遇したのは、それ以外の勢力との均衡を図るためであり、自分の支配下で様々な勢力が互いに覇を競い牽制し合うことで、総体として自己の権威権力を安泰とする支配構造を構築する意図に因るのだろう。恰も難攻不落の城郭を設計し建設するが如くに。

確かに秀吉は天下統一を果たし、朝廷から関白という実質的な最高位の地位を賜った。ただ、秀吉が作り上げた支配従属関係は秀吉個人抜きには成り立たなかった。特定個人の力量に依存した社会は、社会ではなくてその個人を取り巻く関係でしかない。頼朝の鎌倉幕府も然り、足利将軍家の室町幕府に至っては「戦国の世」と呼ばれるほどだ。足利も徳川もどちらも15人の将軍がいるのだが、足利将軍のうち今もなお知名度を保っている者が何人か。それは徳川と比べてどうか。時代が徳川の方が現代に近いということはあるにせよ、足利と徳川の知名度に差異があるとすれば、その違いは何に起因するのか。結局、武士の世の中というのは、徳川幕府が成立するまで、永続性のある社会構造を構築できなかったのではないか。武力という強弱や勝ち負けといったわかりやすい判定材料のあるものに依存した社会というのは社会と呼ぶに足る構造が欠如していたのではないか。秀吉は関白という地位は確保したものの、それがいつ崩れ去るかもしれないという脆弱なものであることを秀吉自身は十分認識しており、そもそも社会を構築するつもりがなかったのではないか。

独裁者と呼ばれる人は、いつの時代も孤独で猜疑心に苛まれる悲惨なまでに脆弱な自己を抱えて生きているように見える。自分の思い通りに人が動き、自分の思い通りに欲しいものが手に入る。それは楽しかったり嬉しかったりするものなのだろうか。自分の身の回りのものが、自分とは違って意志を持たず、自分に従属するだけの世界、ということは世界に自分だけしかいないという認識でもあるはずだ。それを全知全能であると誇ることができるのだろうか。誇る相手もいないのに。一人の市井の人間でしかない者には、そういう独裁者の本当の心の内はわからないのだが。
わかるかなぁ、わかんねぇなぁ、イェーい

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