飯田真・中井久夫 『天才の精神病理 科学的創造の秘密』 岩波現代文庫
天才は忘れた頃にやって来る、とは誤変換かもしれない。大衆の一員として凡庸な毎日を暮らしていると「天才」と呼ばれる人とはそう滅多に出会うものではない。ほんとうは「天才」とは如何なる人のことか、というところから考えないといけないのだろうが、自分に縁がなさすぎて考える気が起こらない。本書はこんなふうに始まる。
いわゆる「天才」は人並み外れているという点で精神病理学の対象となるというのである。なるほど「病気」とはそういうものかと妙に納得した。よく「天才」と呼ばれる人の「天才」性を語るのに変人風のエピソードが用いられるが、たいていは作り話であるにせよ、そういうふうに世間から思われるような何かがあったのは確かであろう。世間並み、常識的な発想からは革新的なことは生まれない。科学者に限らず、芸術、政治、実業、その他の分野でも、画期を成すような業績を残した人には、どこかしら精神病理学の対象となるような個性があるということになる。
「天才=有名=スゴイ」という俗な感覚に従えば「天才」は憧憬の対象なのだろうが、「人並み」から外れることは外れた本人からすれば必ずしも居心地の良い状態とは言えまい。身近にそういう人がいないので、天才がどうこうということは自分に引き付けて考えることができない。しかし、本人はしんどいだろうとはなんとなく思うのである。
上に引用した中に登場するウィーナーとは数学者のノーバート・ウィーナーのことである。本書で取り上げられているのは、ウィーナーを含め以下の6人だ。
アイザック・ニュートン(Isaac Newton, 1643-1727)
チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)
ジグムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)
ニールス・ボーア(Niels Bohr, 1885-1962)
ノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener, 1894-1964)
なぜこの6人かということは書かれていないが、それぞれに興味深いものだった。ボーアについては、以前ここで取り上げた山本義隆の本にもその名前が登場している。しかし、この6人がどれほど「天才」なのか、私にはやはりわからない。
このように本書は締められている。へぇ、そういうものか、とただ感心する。尤も、何が発展で何が後退なのか、何が創造で何が破壊なのか、明確にできるわけでもないだろうし、振り返ってみて、その振り返りの時間軸に応じて見えて来るものではあるのだろう。
今、こうして生きている自分自身を構成する細胞の殆どが生成消滅を繰り返している。ある特定の機能、特定の部位に限定して観察すれば、正常だったり異常だったりするのだろうが、とりあえず私は今、心身の特段の変調を自覚することなく、こうしてこの駄文を書いている。この視点を私というコスモスから私が今いる場、日本、アジア、世界、地球、宇宙、、、と引いていったときに、やはり、それぞれの構成要素(人、集団、組織、地域、国家、など)がそれぞれに明滅しているのだろう。そして、私自身は遅かれ早かれ滅する。この視点を私というコスモスから私がいる場、日本、アジア、世界、地球、宇宙、、、と引いていったときに、やはりそれぞれの構成要素がそれぞれに滅するのだろうか。個と集合体との連続性や非連続性をどう捉えたらよいのだろうか。
それにしてもなぜこの6人なのだろう。筆者は日本人だ。「隣の芝生が青く見える」という心情があって、日本人が日本人を「天才」に選びにくいということがあるかもしれない。所謂「世界史」の成り立ちからすれば、そこに日本人が入り込む機会に恵まれなかった、というところもあるだろう。それにしても、だ。本書には養老孟司が解説を寄せている。養老はこう書いている。
これまた、なるほど、と感心する。感心はするけれど、『太閤記』以降の長期に亘って社会の在りようが基本的に変わっていないという歴史の世界史の中での特異性についても考慮する必要があるだろうと思う。『太閤記』にしても、秀吉の天下統一が天皇から関白への任命という権威の裏付けを必要としたことは何を意味するのか。実権あるいは実態がどうあれ、日本社会の権力機構において朝廷の存在が要になっていたことは確かであろう。
その朝廷の成立は明確にいつとは言えないが、少なくとも奈良時代には対外的に存在を確立できていたと見ることができよう。それにしても8世紀のことである。記紀や万葉集も成立し、それらが現代においても文庫本で誰でも読むことができる。こんな社会は世界に他にあるだろうか。おそらく、特定の個性が前面に出るような社会ではなかったからこそ、個性といったところで太閤止まりであったからこそ、「公あって、個なし」であればこそ、時代の変動を超えて今日に続く社会が存在しているのだと思う。
物事の展開として「天才」が明確な起動役、牽引役として存在することが果たして本当に必要なこと或いは望ましいことなのかどうか。それはその時々の状況次第のことであって、教条的にこうあるべきというようなものではないだろう。もちろん、今まで長きに亘り続いた共同体が、この先も同じように続いていくかどうかは誰にもわからない。会者定離、盛者必衰、諸行無常といったことはやはり世の習いである気がする。真の天才が忘れた頃に現れて、旧来の世の習いを大転換して何事か普遍的に持続的な存在形態をもたらす、なんてことがあるだろうか。