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山田風太郎 『戦中派不戦日記』 角川文庫 その2

昭和20年は夏を境に多くの人の立場が大きく変化した。人は社会性のある生き物だ。立場で物事を考える。生活ということに限れば、変わり身の早い方が「有利」なのかもしれない。戦中戦後で世相がどのように変化したのか。内田の『東京焼盡』は8月21日までなので、この点については山田と内田の比較はできない。

因みに、内田はその8月21日をこう締めている。

何しろ済んだ事は仕方がない。「出なほし遣りなほし新規まきなほし」非常な苦難に遭つて新らしい日本の芽が新らしく出て来るに違ひない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう。
(内田『東京焼盡』中公文庫 338頁)

『東京焼盡』は日記の形式だが、執筆されたのは戦後数年を経てからであることを割り引いても、焼盡となった東京で暮らしているにしては明るい文章だ。それは前日8月20日に灯火管制が廃止され、空襲が無くなったということが実感されたであろうことと無関係ではあるまい。上に引用した最後の文は太田道灌の歌で、「急いては事を仕損じる」とほぼ同義だ。事を急いで戦争を始めたが、事態は変わりこれから世の中は落ち着くだろう、というようなつもりで書いたのではあるまいか。

急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

確かに、戦後、日本は急速な復興を遂げた。それで我々の今がある。振り返ればあっという間のことかもしれないが、「鬼畜米英」「天皇陛下万歳」から「民主主義」「人権」「平和」への転換の渦中にいた当事者たちは精神の拠り所をどのように見出したのか。山田の9月2日の日記にはこうある。

今になってみると、自分にしても、すべてを「運命」にかけて、連日連夜爆撃の東京に平然と住んでいたことがふしぎである。凡らく夢中だったのであろう。もっとも人間というものは、熱中していた過去を振返ってみると、それがいかに冷静な判断の中に動いていたつもりであっても、後ではまるで「夢中だった」ように感ずるものである。実際過去は、いまその連続で自分がここにいるという自覚を除いたら、すべては夢である。(397頁)

しかし、その「自覚」とやらもどれほど確かなものなのだろうか。「自分」もひっくるめての「夢」ではないのか。「私」なんて幻想だろう。還暦を前にして、その向こうには死しかないのでそう実感するのかもしれないが、この60年は何だったのだろうと少々唖然としている。

9月8日(土)曇
ナポレオンはいった。「荘厳から滑稽へ移るのはただ一歩のみだ」(ユーゴー『クロムウエル』序論)
12月8日、アメリカに対する日本帝国の怒りは荘厳を極めた。8月15日以来、日本政府が命がけでマッカーサーに米つきばったのごとくお辞儀している姿は、ただ滑稽の一語につきる。(415頁)

10月に入るといよいよ世相は進駐軍に靡く。10月16日の日記にはこんなことが書いてある。

東京から帰った斎藤のおやじは「エレエもんだよ、向こうのやつらは。やっぱり大国民だね。コセコセ狡い日本人たあだいぶちがうね、鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見えねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのか分かりゃしねえ」とほめちぎっている。(479頁)

10月19日の日記の一部。

 正直は美徳にちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤというほど見てきたではないか。
 悲しいことだが、それは厳然たる事実である。それを「軍備なき文化国家を史上空前の事実として創み出すのだ」などという美辞を案出し、また日本人特有の言葉に於ける溺死ともいうべき思考法で満足している連中の甘さには驚くほかはない。実際世間とは馬鹿なものである。相当なインテリまでが、アメリカによる強制的運命に置かれている現実をけろりと忘れた顔で、大まじめに論じている。
「そのアメリカは軍備をいよいよ拡大しつつあるではないか」
 こう問いかけるわれわれに根拠のある返答の出来る人がどれだけあるだろう。神兵だの神話創造など、戦争中無意味な造語や屁理屈的理論を喋々した連中にかぎって、今度は澄まして、しかも頗る悲劇的な顔つきをしてみせて、幼児のごとき平和論をわれわれに強制している。(488-489頁)

戦争は異常事態ではない。我々の歴史の一部でしかない。何かが狂ってそういうことになるのではなく、始終狂っているからそういうことも当たり前に起こるのである。生きることは綺麗事ではない。その時々においては何かに強烈に拘ったりするものなのだが、過ぎてしまえば嘘のように余所事に感じられるものである。だが、生きることは、そういう「拘り」の連鎖であることも現実である気がする。そもそも心静かになどという想いも幻想とか夢の類なのかもしれない。


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