宮武外骨 『震災画報』 ちくま学芸文庫
天災は忘れた頃にやって来る、という。個人的には、1966年 に襲来した二度の大きな台風(6 月 28 日、台風 4 号と 9 月 25 日、台風 26 号)のいずれかで床下浸水を経験しただけだ。何しろ幼少の頃なので記憶は定かでないのだが、当時暮らしていた棟割長屋の玄関に水が上がり靴がプカプカ浮いていた光景ははっきりと覚えている。昔の家は今よりも上り框が高かったのでそういうふうになる。大陸プレートの端に位置し、太平洋に面し、毎年のように水害や地震に遭う国で暮らしている割には、罹災経験が少ない方だと思う。東日本大震災の折にも、当時暮らしていた巣鴨のアパートはずいぶん揺れたが、倒壊の不安はなく、その後の計画停電にも当たらず、勤めを休むこともなく、何かに不自由することもなかった。
大学時代のサークル仲間の同期のうち、一人は阪神淡路大震災、もう一人は東日本大震災で或る種の当事者として罹災した。タケウチ君は阪神淡路大震災当時、神戸市役所に勤務していて自身が罹災しながら地域の復興作業の最前線で大変だったらしい。タカモリ君は東日本大震災当時、東京電力福島第二原子力発電所の広報部に勤務し、あの災害を間近に経験した。その後、タカモリ君から声をかけられ、2016年6月に原発周辺を案内してもらった。その時のことはこのnoteにも書いた。
或ることがきっかけで宮城県気仙沼市にある店から水産加工品をたまに購入している。その店が都内の百貨店の催事に出店する時に案内の葉書をいただくので、そのときに仕事帰りに立ち寄るのである。そういうことがしばらく続いて、その気仙沼というところを見てみたくなった。訪れたのは2019年7月上旬だった。震災から8年が経過していたが、海に近いところは広範にわたって更地のままで、防潮堤の工事も続いており、場所によっては車の通行に伴って土埃が舞うような有様だった。それでも地域経済の心臓部とも言える漁港はすっかり活気を取り戻しているように見えた。見出しの写真は2019年7月の気仙沼港だ。少なくとも観光客を受け入れることができる程度には復興していたものの、8年を経てなおこの風景かと唖然とした。
おそらく、災害復興は罹災地域だけの問題ではなく、もっと広範に社会経済を俯瞰して国家経済と地域経済との兼ね合いを図った上での暮らしの再構成であろう。もともと過疎化が進行している地域が罹災した場合に、瓦礫を片付け、インフラを復旧させたところで、その後の社会経済の設計がなければ、罹災地域はいつまで経っても更地のままだ。それでは復興にはならない。国全体の経済力が低下している中では、仮に大都市が罹災したとしても、同じように何年も更地の状態が続くことになりはしないかと思うのである。災害罹災ではないが、たまたま大阪で万博会場の準備が芳しくないとの報道がある。あれも更地をどうするかという問題と相通じるものがある。どのような形で開催するのか、いろいろな意味で要注目だ。
それで本書のことだが、宮武外骨のことは赤瀬川原平が何かに書いていたのを読んで知った。南伸坊も美学校の思い出話の中で、赤瀬川が宮武の話をしていたと何かに書いていた。私はもともと記憶力薄弱なのだが、還暦を過ぎて薄弱に拍車がかかり、何事かを語るのに「何か」で形容することが増えた気がする。そのうち「それで何かのことだが、何かのことは誰かが何かに書いていたのをナニして知った」などと書くようになるのかもしれない。それではその何かの備忘録にはならないが、自分自身の薄弱さの備忘録にはなるか。
書くものばかりではなく、思うことも「何」だらけになってはいけないかな、とちょっと思った。ま、しかし、「何」だらけでもいいじゃないか、と思わないこともない。それでも、今、「あれかな」と思って書棚を眺めてみたら「何」が一件解明できた。
また、その文藝別冊には「発掘座談会 赤瀬川原平x種村季弘x浅田彰(司会=松田哲夫)予は危険人物なり——外骨ワンダーランド」という記事もある。それも自分の記憶の中の「何」の一部だったかもしれない。
本書で言う「震災」は関東大震災のことだ。本書は宮武が震災直後で用紙や労働力の乏しい中をやりくりして発行した『震災画報』という小冊子全6冊をまとめて復刻したものだ。6冊の発行日付は以下の通り。
第一冊 1923年9月25日
第二冊 1923年10月10日
第三冊 1923年11月5日
第四冊 1923年12月25日
第五冊 1924年1月15日
第六冊 1924年1月25日
古い時代のものを読んでいつも思うことだが、やはり人というのはそう簡単に変わるものではないようだ。当然、当時の暮らしは現代とは違うが、人の了見は同じであるように感じられる。罹災後まだ復興が本格化していなかったであろう第一冊の冒頭に強く感じるところがある。「未成文明の弊害 震害よりも火害の多かった都市」の最初の方にこうある。
世界の人口が産業革命を機に急増したのは事実のようだ。アダム・スミスの『諸国民の富(The Wealth of Nations)』(原書初版1776年)が説くまでもなく、一般に生産行為は工程を細分化して各工程を単純化し、複雑な熟練を要する労働を単純労働の組み合わせに転化することで生産性が大きく向上する。それにより付加価値生産高も増加する。人々の生産性の向上と生産する価値の増大によって一般に暮らし向きに余裕が生まれた結果、人口が増大したということだ。
人口が急増していること、急増した人口が存在できていることはそれだけ資源が有効に活用できているということなので人口当事者である人類としては喜ばしいことかもしれない。しかし、分業の徹底によって我々は他者への関心を喪失した。例えば、電気器具を稼働させるのにプラグをソケットに差し込んだり、バッテリーを器具に装着する時に、ソケットの先を流れる電流やバッテリーの構造に思いを馳せる人がどれほどいるのだろうか。電気器具はスイッチを入れさえすれば稼働すると思い込んでいる人が多いらしく、電機メーカーのカスタマーセンターに寄せられる問い合わせの中で最も多い「スイッチを入れても動作しない」の原因で最も多いのが器具が電源につながれていないことだ、という話を聞いたことがある。一事が万事というわけではないが、ポチッっとやれば後は見ず知らずの人やモノに丸投げお任せで、手にしたものの由来はもとより、その背後に無数の人々の血と汗と涙が流れているなんてことは少しも考えられないという思考停止は今や社会の常識と化している。しかし、現実を否定するわけにもいかないので素直に思考停止に従うのが生活する上では無難であろう。
ちなみに、小石川植物園には小石川療養所時代の井戸が保存されている。その説明書には、関東大震災の折にはここに約10万人もの人が避難し、その際にはこの井戸が大変役に立った旨が書かれている。
本書で他に目を引いたのは、「貧富平等の無差別生活」の類の話だ。ざっくりいって仕舞えば、財を持っていた者のなかに震災でその財を失った者があった一方で、財を持たなかった者のなかにドサクサに紛れて財を成した者があった、或いは「財を成す」というほどではないにしても、それまでの極貧生活が支援物資等のおかげで改善された、というような話だ。よくある話と言ってしまえばそれまでだが、人の一生というのは最後までわからないものだと、個人の極めて限られた経験や見聞からも実感を伴って思うのである。私個人の経験ではこれほどあからさまなものはまだないが、森繁久彌の書いたもののなかから満洲からの引き揚げ船での光景を引用しておく。
日本の敗戦後も、満洲では進駐してきたソ連の軍票よりも旧満洲国の紙幣の方が通りが良かったそうだ。ソ連の軍人たちですら、最初こそ自軍の軍票を使っていたものの、直に満洲国紙幣を使うようになったという。そんな具合なので、引き揚げ直前まで満洲国通貨を携えていた人は少なくなかったのだそうだ。しかし、どれほど満洲国通貨を持っていたとしても、日本内地では通用しない。上陸地で一人一律百円札十枚が支給されて、当座はそれを頼りに暮らしを立てなければならなかったという。それまでの満洲での貧富は引き揚げで一旦リセットされてしまったのである。似たようなことがこの先起こらないとも限らない。
昨年暮れに母が交通事故に遭った。然程の後遺症もなく、今は従前通りの暮らしに復しているが、相手方から東京海上日動火災保険を通じて支払われたのは、医療に係る費用一切と「慰謝料」名目の137,600円だった。これを以って本件事故に関しては手打ちということになった。事故から約1年、保険会社の担当者は電話で被害者代理人たる私と事務的な話をしただけで被害者の状況を目視確認することは一切なく、医療機関からの書類だけを頼りに事務的に事は終了した。90歳近い年金生活者なので、事故で所得面に実質的な損害が発生するわけではない。しかし、これが働き盛りの世帯主であったとしても、同じような対応になるのだろうか。事故に遭遇するのは当事者の行動に起因するところはもちろん大であろうが、確率として不運にも遭遇することもあるだろう。その場合に震災での「貧富平等の無差別生活」の類のことが起こり得るのではないか。
本書には他にも興味深いことが多々あるが、無駄に長くなるのでここで一旦
筆を置く。