内田百閒 『冥土・旅順入城式』 岩波文庫
『東京日記』の後に読んだので、どうということなく読了したが、いきなり本書を手にしていたら内田に対する印象は全く違ったものになったと思う。前にも書いたが、順番は大事だ。
奇譚ばかりなのだが、話の中身と長さのバランスが絶妙だと思う。奇譚ではあるが、誰にでもありそうなことを少しだけ奇怪な方に拡張した話とも言える。人が当たり前に持っている業が奇をもたらすのかもしれない。そうであるとすれば、フツーの生活というものは奇なるものと安らかなるものとの間のかなり危うい均衡の上に成り立っているということにもなる。
私にはわからないのだが、小説とは何なのだろう。『山高帽子』に登場する野口は明らかに芥川龍之介をモデルにしている。なぜそれがわかるかといえば、内田の『追懐の筆』の中に『山高帽子』とほぼ同じ記述があるからだ。もちろん、全ての創作に元ネタがあるわけではないだろうが、人は経験を超えて発想はできないと思う。時々刻々様々のことが生起する中で、創作の得意な人はその様々の中から常人の意表を突くような組み合わせや展開を創り出すことができる感性を持っているのだろう。
『件』は『変身』の百閒版のような話だ。内田はドイツ語の教師だったので、カフカの『変身』を読んでいたかもしれない。もちろんストーリーは違うが主人公が突然人ではないものに変わってしまうのは同じだ。突然、虫になる、身体が牛で顔が人という生き物になる、というと奇怪なようだが、突然、病に斃れる、事故に遭う、というのは当たり前にあることだ。昨日と同じ今日があって、今日と同じ明日がある、というのは決して「当然」のことではない。或る周期の組み合わせでこの世の物事が展開していくとするならば、突然の変異は確率としては小さいのかもしれない。しかし、確率というのは全体とか平均についてのことであって、個々に対してはあるかないか、起こるか起こらないかの二択だ。平均で自分のことを考えることに意味があるのだろうか。個人を平均で語って平気なのは保険の外交員くらいのものだろう。詭弁に騙されてはいけない。
『短夜』は異類譚。よく昔話に狸や狐が人に化ける、あるいは人を誑かすものがある。落語にもそういう話はたくさんある。或る噺家がそういう噺のマクラのなかで真面目な顔をして、「ほんとうは狐や狸は人に化けたんじゃないかと思うんですよ。でもね、人が横柄になって無茶ばかりするようになったから人を見限って、人に化けたり誑かしたりというようなことをやめてしまったんじゃないか、って時々思うんです」と語っていた。客席は微妙な雰囲気になったが、私はそれは本当なんじゃないかと思うのである。人は自己を序列の中に見出す。様々な尺度を考え出して大小優劣の序列を作って、その中に自分を位置付ける。それができないと不安に苛まれて落ち着いていられない。事実、社会の秩序は序列とセットにして成り立っている。そして、当然のように自分を、自分の属性を、序列の上の方に想定する。それが精神の安定には不可欠だ。狸や狐が人に化けたり誑かしたりするのはあってはならないことだ。なぜなら、生物の序列の中で、狸や狐は人間よりも劣位にあるとされているから。しかし、昔話の中ではそういうことがある。なぜだろう。
本書の収められている一つ一つの話に思うところはあるのだが、際限が無いのでこれくらいで止めておく。見出しの写真は先日撮影した東京都千代田区六番町。内田が昭和12年から亡くなる昭和46年まで暮らしていたところ。