昭和20年の日記。内田百閒の『東京焼盡』と時期が重なる。何故かわからないが、あの戦争のことが気になる。子供の頃は、まだ多少戦争の余韻が残っていた。上野駅の構内では白衣に軍帽という姿で義足とか義手をつけた人が、前に空き缶を置いて楽器の演奏をしていたのを今でも覚えている。親戚には戦死した人はいないが、徴兵で戦争に行った人は何人かいた。両親は昭和12年の生まれなので、終戦時は8歳。空襲の中を逃げ惑っていたはずだ。日本中の主だった町が焼け野原になった。我々はそこを生き延びた人々の末裔だ。それにしては軟弱で虚弱に過ぎる気がする。追い詰められ方が足りないのか、あれから甘やかされ過ぎたのか。
昭和20年、終戦を迎えるまで東京は断続的に空襲に遭ったが、そのなかでも特に大規模であったのが3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日とされている。一般に「東京大空襲」という場合、3月10日の空襲を指すことになっている。
総体に内田と山田の日記のトーンはかなり違っているのだが、50代半ばを過ぎている者と20代前半の者との立場や個人的諸事情の違いに起因するところ大であろう。生活の場は、内田が番町で、山田は通っていた大学が新宿で住まいは目黒のようだ。おそらく二人とも似たような風景の中にいた。例えば、その3月10日の記述は以下の通りだ。
内田の方は少しあっさりしている。
同じことをほぼ同じ場所で体験しているが、書きようがずいぶん違うように感じられる。内田の方は関東大震災が災害体験の一つの基準になっているようだ。それが余程大きかったらしい。それでも、東京大空襲の方が実感としてそれまでに経験のない惨状であったようだ。また、生死についての「運」は二人とも語っているが、山田が他人の言葉を起点にしているのに対し、内田は自ら悟っている。個性の違いもあるだろうが、人生経験の長さの違いに拠るところもあるだろう。
若いうちは、自分の才覚や努力で物事が動くものと暗黙のうちに信じているところがあるものだ。それが齢を重ねると否応なく自分というものの無力を悟るようになる。しかし、だからといって敗北感に苛まれるのではなく、軽やかな諦観に落ち着くのである。「若い」とか「老い」というのは実年齢とは関係なく、自分に対する無力感の大小で測られるものだと思う。若くして死ぬのは悲劇であり、老いて死ぬのは自然だ。90歳でも「早死」のような心境で逝く人がいるのだろうし、20代でも老境に至る人もいるかもしれない。おそらく、その時その時を自分なりに精一杯の時間を重ねると人生の何事かを悟ることができるのかもしれない。言い換えれば、のんべんだらりと日々を重ねれば、いつまで経っても「若い」ままということでもあろう。自然にくたばりたいものである。