左遷の後から出た温泉 第732話・1.25
「え、これは!」俺は、人事部からもらった辞令を見てショックを受けた。「完全な左遷か、まさかこんなに早く出世コースから離脱するとは」
俺は国立大学を出て今の企業に就職して10年。すでに係長に昇格しており、このままでいけば最年少クラスの課長、そして部長と出世コースをひた走っているかに思えた。「あわよくば上場企業の役員も夢ではない」
ところが、上司から来た辞令は、俺の野望を打ち砕くのにはちょうど良い内容だった。本社から地方への転勤。それも山奥の方である。
「どこで狂ったか」俺は左遷の理由が思い当たらない。営業成績が悪くもないし、会社にある派閥の間をうまく渡り歩いていたつもりだ。むしろ派閥に入らなかったのが仇になったか、でも課長もそういう無派閥の人多いし......「じゃあ何でだ?」
俺はわからぬまま、その日を迎え、左遷先となる地方の営業所に向かった。
「これが、旅行ならいいんだろうけど、ずっと働く場所でこれか」俺は出世が無理となった以上、この会社でどうやって生きたらいいのかじっくりと考えだした。いっそのこと転職も考えたが、正直なところその勇気はない。
転職してももう出世とは無縁の中途採用。というより自慢できるスキルはあまり持っていない。もし俺が望むような出世を狙うのなら、強力な経営能力やマネージメントの能力でもない限りその先には進めないのだ。
「これからは趣味で生きるのもいいかな」赴任して最初の休日、俺はこの地域にある、古びた温泉旅館で息抜きをしようと考えた。
俺はこの地に来てから思い出したのだ。学生の頃は大の温泉好きで、全国の天然温泉を巡っていたことがある。どの温泉にどんな泉質があるのかも知っていた。
「本当は温泉で仕事をしたいが、そんなの扱っている上場企業って、多分ないしな」と、その道をあきらめた俺は、今の会社に就職したという経緯。
「さて、ここの温泉は良い泉質だったはずだが。ん?」脱衣所まで来た俺は驚いた。なんと天然温泉では無くなったというではないか!
納得できない俺は旅館の人間に問いただした。そうすると神妙な顔をした旅館の主が現れる。俺を見るなり恭しく頭を下げると、こう言い放った。
「申し訳ございません。うちはもう温泉が枯れてしまい出ないんです。だから人工のトロン温泉となりました。も、もちろん効能はいろいろございまして、天然温泉と変わりません。はい」
俺の表情が硬いままの為か、相手の表情が挙動不審。目を白黒させながら明らかに狼狽している。
「では、いつから人工になったのですか?」「は、半年前からで」申し訳なさそうな店主。俺はこれ以上追及しても仕方がないからと「わかりました」とだけ言って、大人しく人工温泉に入った。
そして入っている時にふと「源泉井戸からお湯がでなくなった理由は何だろう」と、疑問がわきだす。
翌日のチェックアウトの時にもう一度旅館の主に尋ねた。「温泉が出なくなった原因が気になります。もし差支えなければ、源泉井戸を見せてもらうわけには」
旅館の主は一瞬固まったが「へ、ええ、まあ。お、お客様は、当初うちの温泉が天然だと思ってこられましたから、はい特別にお見せしましょう」
俺は旅館の主とともに、源泉井戸に向かってみた。山間の温泉の敷地から少し離れたところに、源泉井戸だったところがある。井戸は使われなくなって久しく、赤さびていた。
「ここなんです。昔はよくお湯が出たんですが、昨年くらいから急に湯量が減り、そして半年前ついに」旅館の主は、ここでうなだれるように頭を下げる。
「ほかの旅館とかは......」「ええ、ここはうち1軒だけの温泉でしたからね」と店主。俺は周囲を見る。確かにこの旅館のほかに施設がまったくない。だが俺はこのときに何かをひらめいた。「別のところに泉源があるのかもしれない」と。
「もしよろしければですね。私、実はこういうもので」と俺はとっさに旅館の主に、会社の名刺を渡す。俺の会社の事業のひとつに地下を掘る機械を扱っている部門があった。
「もしかしたら近くで掘れば、温泉がまた出るかもしれません」「は、はあ、もし出ればそれは、ありがたいこと」
「わかりました。明日出社してから相談してみます」
こうして俺は、出社してから上司らに相談。こうして掘る前に、旅館の周辺を調査をすることになった。「これは出る可能性ありそうですよ」これが事前調査の結果である。だがこれ以上はお金がかかる話。もはや旅館の主次第と言える。
「やってみます。うちは代々続いた旅館です。やはり天然温泉でないと」
こうして温泉を掘る工事が始まった。元の井戸から少し離れたところにポイントを定めて掘り始める。そうすると本当に温泉が湧き出た。「こ、こりゃすごい湯量」「硫黄のにおいもしますね。結構良質の温泉ですよ」
こうして俺の成果として、天然温泉旅館が復活。俺は初めて生きがいを感じる仕事をした。そして新しい温泉がひかれた旅館に、もう一度泊まることに。
「おう、こりゃいい湯だ」俺は新しく湧き出た良質の湯を、心行くまで楽しみ、至福のひとときを味わった。
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シリーズ 日々掌編短編小説 732/1000
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