神話ではない世界の起源
「あっ!」天を見上げていた男は、足元に穴があることを気づかずに、そのまま足を穴の中に入れてしまった。それがもとで穴に落ちてしまう。幸いなことに深い穴ではないので、けがはしなかった。
「ハハハハ!学者なのに馬鹿みたい」それを近くで見ていたのは若い娘。男が有名な学者であることを知っていたが、思わぬ不覚を取ったのを見て嬉しそうに笑う。
男は穴から這い上がって、笑った娘の方を見る。娘はそれを見て慌てて逃げるように走り出した。しかし男は何も言わず、再びまだ暗さが残る早朝の空を見ながら歩き始めた。
ここは紀元前500年代のの古代ギリシャのミトレス。エーゲ海沿岸の場所である。穴に落ちた男はタレスという政治家であり学者。政治活動をしばらく行っていたが、最近はもっぱら政治の方は引退状態。代って測量のことや天文学を研究していた。
その結果として彼は日食を予言したり、自分の影を使ってピラミッドの高さを測定したりしている。
娘はタレスから逃げて、町の共同井戸の前に来た。ここには早朝から一日の準備をはじめようと集まった女たちが大勢いる。彼女たちは朝一番にここに集まって、必要な水を手に入れながら少しの間、人のうわさ話で盛り上がっていた。
「ねえ、聞いて!あの学者さん、穴に落ちたのを見たのよ。難しいことを考えている学者も目の前にある足元の穴には気づかないのよ。クッククク!」
そういって娘はその光景を思い出しながら笑う。他の女たちもつられるように笑った。「でもあの人って、昨年だったかしら。次のオリーブの収穫が豊作って予想して、オリーブの圧搾機械を借り占めたんだって。それでオリーブを絞りたい業者に機械を貸出して儲けたらしいの」
とは、この中で1番年配でほっそりしている女性。
「私は別の面白い話知っているわよ」とは、2番目くらいの年配者。先ほどの女性と比べてやや太っていて最も貫録がある。
「あの人の母親から妻をめとらせようとしたら『そのときではない』と言って逃げたの。その後も『もうそのときではない』って言い放ったそうよ」
「それであの年で独身なの、やっぱり変わった人ねえ」今度はこの若い方に入る女性。「あとねあの人」と別の女性もタレスの噂話で盛り上がりだす。
すると「どうやら、わしの噂話かな」と目の前にタレス本人が合われた。一斉にタレスの方を見る女性たちは顔色が変わり、目を泳がせ一斉に口元に手を置いた。
「ふん、そろいもそろって同じようなポーズを取って、わしのことなど好き勝手に噂するがよい。だがせっかくだから、ひとつだけあることを、みんなに伝えておこう」
「あることってなんですの」最年長の女性が代表して質問をした。
タレスは軽く咳払いをすると「この世の中がどのようにして出来ているか知っているか」
「え、知っているも何も神様が」「そう、小さいときに聞いている。いろんな神様の物語があって、それで出来たのよ」「私も知ってるわ。だから偉大な神様をみんなで拝むんだよね」
彼女たちの答えを聞きながら、タレスの口元が緩む。「フフフ。思ったとおりだな。神様が作ったと。そうではなく、もっと具体的に何で出来ていると思う」「え、いや神様じゃないし。知らないわ」「うん、私たちには... ....」
「この世の中にある万物は、あるもので来ているとワシは思う」タレスは自慢げに宣言した。
「あるもの?」
「そう、万物の根源は、アルケーというもので出来ておる。そして我々人間も、あそこで歩いていた犬や放牧している羊や牛。あの家を作っている素材。さらに山に生えている木々、あるいは我々が毎日飲み食いしているあらゆるものすべてじゃ。それらは全部元々はアルケーから生成されたものだ。そして最後はアルケーに戻るのじゃ」
女性たちは、全員タレスの言っていることが全く理解できず、狐につままれたような唖然とした表情をしている。
「ハッハハ! 相変わらずみんな同じ表情をしておるな」とタレスは笑った。
「あの、ちょっと、貴方は学者としてすごい人だとは思います。でも私たち一般の人にも分かるように説明して頂戴。まずそのアルケーって何よ」と、二番目に年を重ねた太った女性が、まくしたてるようにタレスに質問する。
タレスは黙って、女性たちが集まっていた。井戸の目の前に向かうと井戸のロープを操作しながら、水を汲み始めた。ゆっくりとロープを引っ張りながら地下水が入った桶を引き上げる。タレスはすでに老境に近いためか、思うように力が入らず、苦しそうな表情をしながら引っ張っている。見かねて手伝ったのは、さっきタレスが穴に落ちたのを見て笑った若い娘。
ふたりがかりになると、ゆっくりと上がっていた桶が、一気に地上に顔を出す。タレスはその桶を取り出してみんなの目の前に置いた。
「これは、井戸水。これがどうしたのかしら」若い方にはいる女性がつぶやいた。
「この中に入っているのは水。実はこの水こそアルケーそのものじゃ。つまり、万物は元をただせば、水から出来ているということじゃ。
そして今、地下からこの水を汲み上げたじゃろ。これはこの大地の下が水で出来ていて、水で浮いているからなんじゃ」「万物が水で出来ている?」女性たちは合わせるように声を発した。
「そうだとワシは思う。君たちはこれを今日の話題でもするがよい。じゃあな」
こういって、相変わらず戸惑い気味の女性たちを背にしたタレスは、井戸のある広場から歩いて立ち去った。
もちろん万物が水で出来てはいないことは現代では証明されている。しかしそれまで世界の起源については、先祖からの言い伝えによる、神話でしか語られなかった。
このとき彼は初めてより合理的な万物の説明をしたという。そのためタレスは、世界初の西洋哲学者と言われている。それは有名なソクラテスが登場する100年ほど前の出来事。
ちなみに彼は、数学の世界にもある定理を後世に残した。それはピラミッドを図ったことで「直径に対する円周角は直角」というターレスの定理である。
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シリーズ 日々掌編短編小説 231
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