漱石の脳の中は?
「こんなところに来ていては、本当はダメなのに、やっぱり見たかったもんな」
ここは日光。僕が所用のついでに観光に来た数あるスポット中で、一番気になっていた華厳の滝の前にいる。
「今日は2月21日で、漱石の日。僕が敬愛する夏目漱石先生に対して文部省が『文学博士』の称号を贈ることを決めた。それなのに『肩書はいらないと』先生は文部省に手紙を書かれた。
そう偉大な漱石先生にとって、そのようなものは無用の長物なのだ」
僕は、じっくりと滝を眺める。この滝も名称という肩書がなくともその壮大な姿を見せ続けるだろう。
「僕も漱石先生の様に、いつか後世に残る名作を残す。そのためにまずは東大だ!」僕は滝に向かって大声を張り上げた。
仏教の華厳経から名付けられたという華厳の滝。落差97メートルもの大爆は、厳寒の風が吹き、雪が残る白混じりの景色を借景に、引力に任せてひたすら水を落下させている。
僕の声などあっという間に消し去る豪快な音。そこからにじみ出るマイナスイオンを全身に感じるだけで存分に味わえるリラクゼーション。
僕はこの寄り道で、気分転換。また受験への熱い思いがみなぎってきた。
「大声を出している君!」突然僕を呼ぶ声がする。振り向くとずいぶんレトロな学生服姿の青年がそこにいた。「え、どなた?」
「なぜここに? 夏目先生と華厳の滝との接点は!」青年は大きな声で僕を威圧的に見る。
「いえ、接点とかではなく、僕がたまたま日光に来る予定があったからです。僕はここに限らず滝が大好きでして」
「滝が好き?」
「はい高い段差があって水が一気に落ちていく様。そこからみなぎるマイナスイオンが入った水しぶきの心地よさ。さらに落下先の滝壺に降り注ぐ、あの激しい音に、凄い魅力を感じるのです」
「ほう、ということは夏目先生とは無関係に、この地に来たというのですか」
「はい、華厳の滝は一度見ておきたかったので。それにしてもこの滝本当にすごいですね」
「うん、たしかにそうかも... ...」ここで口を閉ざす青年。
数秒後に口を開き「で、君は夏目先生のことを敬愛しているんだね」
「はい」僕は人一倍張り切った声を出す。
「僕は漱石先生の作風に憧れがあります。まだ僕自身小説家としてデビューはしていませんが、既に先生にあやかり、秋眼宝石というペンネームも決めています」
「ほう、秋眼君か。確かに夏目の次は秋眼かもしれませんね」青年はそう言って口元を緩める。だが目の鋭い表情は変わらない。
「本当は僕、こんなところでのんびり観光している場合じゃないんです」
「秋眼君、それは、どういうことかな」
「僕は東大文学部を目指している受験生です」
「東大、ああ東京帝国大学のことか。確かに夏目先生はその大学と接点がありますね」
「はい、そうなんです。漱石先生は僕の住んでいる松山に来る前に東大の英文科を卒業されたと。とにかく英語が得意だったということは知っています」
「まあ夏目先生は確か、日本人が英語を教えることに違和感があったとも、聞いたことがありますが」
青年の言葉を気にせず、僕は漱石先生を熱く語りつづける。
「それで僕が調べたところ、先生の脳が東大で保管されていると知りました。まさか漱石先生の脳がエタノール漬けで残っているなんて、すごくないですか! だから東大に入ったら、ぜひ漱石先生の脳を拝見し、そこで先生と同じ文豪へのスタートラインに立ちたいと」
ここで青年はやや軽蔑のまなざして僕を見ると苦笑した。
「ハハハハ! 夏目先生の脳は、東大にあるのは確か。でもそれは医学部のはずですよ。おそらく医学部に入らないと、見せてもらえないのではないでしょうか」
「そ、そうだったんですか!」秋眼は少し残念そうに目が伏し目がちになる。「秋眼君、そう落ち込みなさるな。別に夏目先生の脳を見たとて何も変わらない。文学部を目指しながら、自らの意思で創作をすればいいではないですか」
先ほどとは違い、少し温かみある笑みを浮かべる青年。
「しかしあなたは、ずいぶん漱石先生のことがお詳しいですね」
僕は話題を変えようと、青年に対する疑問をぶつけてみた。
「ふふふ、まあ夏目先生には、結果的にご迷惑をおかけしました。
『君の英文学の考え方は間違っている』って授業で叱責されて。その後夏目先生とは無関係に取った僕の行動だったのですが、結果的に先生に余計な負担をかけたことは、申し訳ないと」
「漱石先生に叱責される。負担をかけたこと。一体どういうこと?」僕は心の中で首を傾げた。でもこの人も漱石先生を敬愛されている。おそらく先生の作品を読みながら、自らの追体験の中でそう感じたんだろう。
「あの、まあ、あまり気になさらなくても。漱石先生の作品は本当に素晴らしいです。だから感情移入されたのでしょう。でもそれってあくまで先生の創作ですから」と僕は青年を励ました。
青年は遠くに少し寂しげな視線を向けると、一瞬口を緩めて笑顔を見せる。
「秋眼君、君は本当にいいねえ。話をしていて楽しかったよ。将来ぜひ有名な小説家になってくれ。では僕からのお礼をさせてもらうよ」
「え、いや、お礼なんてそんな」僕は慌てて首を横に振って断ろうとした。すると「大したことではない。君のメールに僕の考えた詩を送ったよ。じゃあ」
「え?」僕は顔をスマホに向けて、チェックすると確かにメールの着信が入っている。すぐに顔を上げたが、既に青年の姿はない。
「あっという間に! 本当に不思議な人だ。有名な詩人さん?」僕は改めてメールを見る。それには「巌頭之感」というタイトルで差出人の名前は「藤村操」とあった。そして内容をチェックすると次のように書いてある。
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。
「うん? これって死を決意した詩。え、まさかあの青年って滝で自殺した人の??」
僕は念のために調べてみた。そしてそれを確認すると、全身からの震えが止まらない。
それは夏目漱石の英語の授業を受けたある生徒が、漱石から英文学の考え方で叱責を受けた数日後、華厳の滝に飛び込んで自殺した。
その人物の名が「藤村操((ふじむら みさお)」である。それは1903年のことで、近くの木に「巌頭之感」というメールの内容と同じ詩を残して飛び込んだのだと言う。
「画像で創作(2月分)」に、dekoさんが参加してくださいました
海の夕日をテーマにした正統派の詩は心地よく読めます。また朱鷺色と言う初めて知った色。調べたら夕焼けの色に近いことがわかりました。そしてこの言葉によって情景が一層盛り上がります。ぜひご覧ください。
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シリーズ 日々掌編短編小説 397