フリードリヒの考えていること
「普段私は、ワインもビールも飲まないんだ。1杯飲むだけで人生を涙の谷にしてしまうからね。しかし今日は不思議だが、無性に飲みたくなった」
世界のクラフトビールが飲めるバーに突然現れたのは、古びたスーツを着込んだ白人の男。もう遅い時間のためか、薄暗い店内には他の客はいない。彼は口ひげを蓄えながら小難しい顔をしている。
「あ、そうなんですね。では定番の生ビールでも」
応対するのは、店を任されているフィリピン人のニコール・サントス。他のスタッフはすでに帰ってしまい誰もいない。
色黒でエキゾチックな顔立ちの彼女は、日本語が堪能だが英語も得意。だが目の前の欧米人は、普通に日本語で語った。
「いや、我が生まれ故郷のプロイセンで醸造している、ラガーかピルスがないかね」
「プロイセンって。え、えっと。あ、ドイツ北部からポーランドにかけてあった国ね」ニコールは慌てながら位置関係を確認。該当するビールがないか、冷蔵庫を開けて探し出す。
だが男は大声で「ああ、すまない。つまらぬことを言ったかな。そうそう私はすでにプロイセンの国籍を離脱し、今は無国籍であった。探すまでして欲しいわけではない。せっかくだからこの店のおすすめをもらおう」
「む、無国籍...... いったいどうやって日本に? ビザは? あ、そっか。日本で生まれたけど、親が認知していないのかしら」
ニコールは頭の中であれこれ考えながら、ジョッキに生ビールを注ぐ。そして静かに男に渡した。
男はジョッキを手にして持ち上げると、黄金に染まったその液体を、十数秒ほど静かに眺めていた。黄金の液の中には小さな空気の泡が無数にある。その一部が、液の上層部にある白い泡の固まりのほうに向かって上昇していた。それを眺めるのに飽きたのか、男は静かに口をつける。
「久しぶりにすごい個性的な人が! こういうときに常連客が居たらいいのに、今日はなんで誰もいないの」
ニコールは目の前で静かに過ごしている男の接客に、相当気を使いそうなことを直感。だが、その不安はすぐに吹っ飛んだ。
しばらくして店のドアが開く。そこから入ってきたのは、常連の中の常連というより、現在は恋人の西岡信二。
「いらっしゃい。あ、なんだ信二か」「何だよそれ。一応客だぜ」と言いつつ笑顔で反論。カウンターの一番左端に座っていた男から、二席間を空けた位置に腰かけた。「いつものよね」
「いや、今日はイギリスのバスペールエールをもらうよ」
「へえ、ギネスじゃないの。珍しいわね。わかりました。ありがとうございます」ニコールは笑顔で、冷蔵庫に入っているビールを探しに向かう。
信二が来てくれたら、横の男が仮にやばい奴だとしても助けてくれる。それに静かに飲みたいタイプのようだから、無理に相手をする必要もない。とりあえず信二の相手をすれば済む。
ニコールの笑顔は、接客というよりもそちらへの安ど感だ。
「はい、どうぞ」
瓶に入ったビールをグラスに注ぐ。そして声のトーンを落とした信二。「横の欧米人は初めて?」「そう、初めて」
「ひとりで静かに気取っている。自分の世界に入っているのか? 随分ニヒルな雰囲気だな」
「ダ、ダメ、聞こえるわ。あの人日本語得意よ」ニコールは慌てて耳打ちする。
信二は小さく二回頷くと慌てて話題を変え、わざと大声を出す。
「ああ! そうだ、この前のイースターの礼拝。行けなくて悪かったな」
「え、まだそれ気にしてるんだ。いいのよ。お互い宗教は違うし。私の故郷フィリピンはカトリックの国だからは子供のころから神様、イエス様を信じて生きてきたの。だから仏教徒の信二にそれを押し付ける気なんてない」
「神!」突然横にいた男は大声を出す。
「おせっかいかもしれないが、言わせてもらおう。神は死んだ」
「......」
ニコールと信二は男のほうに視線を向ける。男はビールを一口含めると再び口を開き。「あんなものは弱者によるルサンチンマンの反逆だ」
「ル・ルサンチンマン??」ニコールは信二のほうを見る。信二は慌ててスマホを取り出すと『ルサンチンマン』と入力した。
「浮浪者のことかしら?」「それはルンペンだろ。あ、これか」信二は検索結果を見つけた。
「ん? 主に弱者が強者に対して憤りや憎悪などの感情を持つことらしい」「え、どういうこと」「さあ」信二は首をかしげる。
「人々は神が絶対という。だが実際にはそんな絶対的な視点は存在しない」
男はふたりに向かって持論を語りだす。それもそうだ。このときに店にいたのはこの三人だけだから。
「あの人、多分無神論者だから反論したらダメだよ」信二が小声でニコールに忠告した。「わ、わかってる。共産主義者かもね」
「神は死んだが、その代わり超人が生まれることを願っているんだ」またビールを一口飲んだ男は、先ほどより少し大きめの声で持論を展開する。
「超人...... アニメのことか?」信二は頭の中で考えた。
「死んだ神に頼らず、積極的に生きようではないか。神を信じるだと。ばかばかしい。あのような道徳などは最終的にニヒリズムに行きつく」
「ニヒリズム...... えっと、自分の存在を含めて、すべてが無価値になる考えか。つまり洗脳されたように盲目的に信じたら、確かにそこに行く。うん、なんとなくわかる」
信二は男の言う聞きなれないキーワードをその都度検索。本業がフリーライターの信二は、インタビューをする際に、咄嗟にわからないことがあれば、このようにその場で調べる。
そして男が反キリスト的なことを言い続けるため、カトリック教徒のニコールの表情を注意深く見ながら、自分自身で彼の言おうとしていることを模索した。
結局注文したビールは飲まずに放置したまま。その様子を見ているニコールは、笑顔を絶やさないが目は笑っていない。
ようやく信二はある結論に達した。そして思い切って男に話しかける。
「あのう、初めまして。あなたのおっしゃることわかりました。つまりキリスト教は間違っていると」男は小さく頷く。
「むしろ、東洋のゴータマ・シッダルタこそ尊敬すべき方だ。だがヨーロッパはまだ彼の教え、仏教を受け入れる土壌にあらず」
「ゴーダマ。それって、釈迦。あの人、仏教徒?」「かもな」
ふたりは男に聞こえないようにお互い意見を交換。そして彼には一切反論せず、ただ頷くのみ。
「永劫回帰だ。来世の解決などない。現在と同じ世界を繰り返すのみ。そして芸術により生は高揚される」
「繰り返すって、輪廻転生のこと言ってるの」「かなあ」
ニコールと信二がふたりで首をひねっていると、男はさらに話す。
「例えば精神として『しなければならない』という重荷を抱えて耐えているラクダが、やがてそれを否定するシシになる。そして巨大な龍と戦う。それで『したい』という生き方にかわる」
男はそこまで語ると、何かに納得したのか、残ったビールを一気に飲み干した。
そして立ち上がる。「それでは私はこれで帰ろう。いろいろ邪魔をしたな」「あ、ありがとうございます。会計はえっと」ニコールは慌てて伝票を確認した。
「そうだ、今日は金を忘れてしまったな。悪いが、私の著作した本を代わりにプレゼントしよう。こう見えても、私はバーゼル大学で教鞭をとっていたことがある。怪しいものではない」
男はそういうと、持っていたカバンから本を次々と取り出す。それをニコールの前に置いた。本は4冊だが、どうやらそれはドイツ語で書かれているので、ふたりはなんて書いているのかわからない。
「あ、この本は『ツァラトゥストラはこう語った』というタイトルだ。私は哲学を専門に扱っているが、これは小説のように読める。ツァラトゥストラという登場人物になり切って読んでみたまえ」
そういうと男はそのまま立ち去った。
「あ、ありがとうございます」ニコールは、この人に金の請求をしても無駄と判断。彼が飲んだ生ビールを自分が飲んだことにして、会計処理。そしてこの4冊のドイツ語本を、その金額で購入ということにした。
信二はさっそく男が語った本のタイトルをスマホに入力する。
「え、この人って! まさか」信二は検索の結果を見て目を見開く。
「あのう! 失礼ですがあなたのお名前は?」信二は大声で男を呼び止めた。
男はドアの前まで来て立ち止まる。そして信二のほうに振り返ると静かにこういった。「私の名は、フリードリヒ・ニーチェである」と。
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