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くま読書 ハンチバック

どうも、お久しぶりです。
くまです。
書きたいことがたくさんありながら、書けない日々が続いていましたが、お久しぶりの本日の内容は、読書感想文にしたいと思っています。

今回取り上げる本は「ハンチバック」です。
この本の感想は、私の親しくさせて頂いているnoterさんたちも何人か取り上げております。様々な感想を読ませて頂いて、興味深い内容だなと以前から思っていました。

第169回芥川賞受賞。
選考会沸騰の大問題作!

「本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。」

井沢釈華の背骨は、右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲している。
両親が遺したグループホームの十畳の自室から釈華は、あらゆる言葉を送りだす——。

Amazonの紹介文より

作者は市川沙央さん。私とほぼ同世代の方です。
先天性のミオパチーにより、背中が大きく曲がってしまう側弯症を罹患しています。今は人工呼吸器と電動車椅子を使用して、様々な公的サービスを利用されながら生活を営まれています。

この話は小説であるとともに、かなり彼女自身の個人の経験や生活の中から生まれた物語でもあると感じます。
エッセイではなく、小説という形を使って表現されていることが、私は個人的にとてもいいなと思いました。

読んだ後の感想としては「いやぁ、かっこいいな」と思いました。

「私がしゃべると炎上する」ということを上記の動画で作者が話していますが、内容はかなり刺激的だし、露悪的だと思います。そのバランスはかなり故意であり、意識されている。
そしてその内容は決して私たちが安易に共感しえるようなものではなくて「お前らふざけんなよ!」という彼女自身の怒り、憤激も感じました。

特に読書体験に関する記述で

 厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。

「ハンチバック」より

という内容に「わわわわわ」となりました。
そして、背筋がぞぞぞぞとなりました。
はい、私のことです…..とも思うし、私が関わらせてもらっている利用者さんの中にも同じようなことを訴えていた方が過去にいらっしゃったことを思いだしました。

また、主人公の彼女が望む「ふつう」の生活。
ノートパソコンに書き残された内容について見ていきます。

<妊娠と中絶がしてみたい>
<私の曲がった身体の中で胎児はうまく育たないだろう>
<出産にも耐えられないだろう>
<もちろん育児も無理である>
<でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから>
<だから妊娠と中絶はしてみたい>
<普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>

私も含め、身体的に不自由を感じず生活をしている私たちが、ごく当たり前にできると思われていること。
それが彼女にはとても遠い存在となっています。

彼女が望んでいる異性との性的な接触やその先の性交、妊娠、そして出産は、誤解を恐れずに言うならば、私は実際体験できているわけです。

そこで感じてしまう自らの「特権性」について、小説の中でも登場していることばですので、私は少し振りかえって考えたいなと思いました。

「特権」(Privilege)は、ある社会集団に属していることで労なくして得る優位性、と定義される。ポイントは「労なくして得る」で、努力の成果ではなく、たまたま生まれた社会集団に属することで、自動的に受けられる恩恵のことである。

出口真紀子さんへのインタビュー記事より


今回の「特権」について、そしてそれにまつわる「加害性」について、私の好きな永井玲衣さんとアジカンのゴッチさん、そしてミュージシャンのSIRUPさんが話しています。機会があったり興味関心がある方はぜひ聞いてほしいのですが、今回の特権を考えるにあたって、私はこの放送に心を救われた部分があります。

救われた部分に対しては後で後述しますが、特権についてのいい例えがありましたので紹介します。

 特権とは、ゴールに向かって歩き進むと次々と自動ドアがスーッと開いてくれるもの、と考えればわかりやすい。自動ドアは、人がその前に立つとセンサーが検知して開くが、社会ではマジョリティに対してドアが開きやすいしくみになっており、マイノリティに対しては自動ドアが開かないことも多い。マイノリティはドアが開かずに立ちはだかるため、ドアの存在を認識できるし、実際認識している。
しかし、マジョリティ側はあまりにも自然に常に自動ドアが開いてくれるので、自動ドアの存在すら見えなくなってしまう。特権をたくさんもっていても、その存在に気づきにくいため、マジョリティ側は自分に特権があるとは思っておらず、こうした状況が「当たり前」「ふつう」だと思って生きているのである。

出口真紀子さんへのインタビュー記事より

上記は永井玲衣さんが配信で述べている本にも書かれているそうです。

(私はこの本を購入したけどもまだ全部読めていないので、次に読む本はこれだなと感じております)

もう一つのたとえ話があります。
特権に気づくための「特権者教育」について永井さんはふれています。それは「紙ボールアクテビティ」というゲームで、一番前にいる先生の横にあるゴミ箱にむかって、生徒たちは紙をくしゃくしゃっと丸めたものをいっせいに入れ込んでいきます。
そうすると、一番前に座っている人の方がゴミ箱によく入る結果になる。

その状況がまさに「特権」をあらわしている。

先生は「なぜうまく入ったのかな?」と生徒に問うと、生徒たちは「投げるのが上手だから」と返す。
そこで先生は「(距離が)近いからだよ」と伝えると「おぉ….!」と生徒たちは何かに気づく。
ここから考えられることは「想像できないものはどのようにしても想像できない」そして「自分事として体感すると気づきやすい」ということであると永井さんは話しています。

余談ですが、一番前で入らない子は「恥ずかしい」と言うそうです。それもすごく本質的で、近くにいるのに入れられない自分を恥と思ってしまう。そして後ろ側の子は次第に投げもしない状況になったりします。「なんでこんな意味のないことをやらすのか」「どうせ入んないよ」というあきらめが出てくるそうです。
おもしろい話だなと思いました。

最後に、放送されていた内容を聞いて私が救われた部分についてお伝えします。

自身の「特権」について、どう向き合うのか。
一つの視点は、自身が特権を持っている事で他者に責められることはないということです。
特権を持っているのは決して悪い事ではないし、自身を懺悔したり卑下するものでもない。変な反省もいらない。
じゃあ、特権側はこの課題にどこまで関与すればいいのか。

ヒントとして

一人の中に特権….いわゆる多数で優性であるマジョリティであることと、少数派マイノリティであることは共存していて、いろいろな軸の中で、私たちは生きていて、誰しも両方が存在していることが前提としてあります。

つきつめて考えると、自分の中の一部のマイノリティな部分によって、誰かに加害されたことは誰しも経験しているのではないかということをSIRUPさんは語っています。

まずは自分がどの位置にいるのかを知る事。
劣位側で暴力や加害を受けていたら、それが当たり前ではなくて、おかしい状況であることを認識する。認識できるだけで楽になることもある。

そして次は自分を守る。
そんな自分をまず愛する。

加害されてつらい体験をした人であれば、他者にそのような環境を自分は強いることがないようにしようという意識が持てるのはないか。それは本当に小さなことかもしれないけども、大事なことであるのかもしれないと3者は配信で話しています。

「私が加害しないにしよう」は、自分が加害された経験から生み出されたリアルな気持ちです。
そこから自分の特権について認識したり、自分に何ができるのか、どうしたら加害される人たちを守れるのかということを意識すること。

上記のことなら、私にもできるのではないかなと感じました。

今日はハンチバックの感想文として、自分の特権についても考えてみました。

まだまだ気づいていない部分もたくさんありますが、また世界と社会と他者とふれることで、自己の気づきを増やしていきたいと思っています。


ここまで読んで頂いた方はありがとうございました。


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