見出し画像

くま読書 ほんのちょっと当事者

先日「当事者」について少しこの記事で触れました。

私はそこで当事者の階層性や分断についてほんの少し書き記したのですが、その時に脳裏をかすめたのが、以前読んだこの本のことでした。

ローン地獄、児童虐待、性暴力、障害者差別、
看取り、親との葛藤…「大文字の困りごと」を
「自分事」として考えてみた。
「ここまで曝すか! 」と連載時より大反響の明るい(?)社会派エッセイ
(Amazon紹介文より)

1.誰しもが「ほんのちょっと当事者」

この本の作者青山ゆみこさんは題名の通り「ほんのちょっと当事者」だ。

銀行のカードローンで自己破産しそうになった当事者だし
高音域の難聴の当事者だし
親からの過干渉、呪縛で悩んでいる当事者だし
父親の紹介の治療者に性暴力を受けた当事者だし
親の終末期の看取りを行った当事者だし
夜尿症がなかなかなおらなかった当事者だし
小さいころに思わぬ障害者差別をしてしまった当事者だし
派遣社員の当事者でもあった。

こうやって書くと、すごく濃い人生を送っていらっしゃるなぁと思います。平々凡々な私なんかは大変尊敬してしまいます。まさに「人生は波乱万丈」ですね。(そんなテレビ番組が昔あったような気がする)

でも当のご本人はそのようにとらえていないようだ。

少し著者の文章を紹介します。

当事者っていったい「誰」なんだろう
当事者には「なる」ものなのだろうか
障害や病気、貧困といった社会福祉制度に関連した、いわば新聞記事で見出しとなるような「大文字の困りごと」を抱える人には、自分が当事者だという意識がある。
けれども、家庭のなかでひそひそと語られるだけの「小文字の困りごと」や、口に出さないまま心に秘めたもやもやを抱える人もいるだろう。

著者は自分は「大文字の困りごと」を抱えて生きてきたわけではないとして、父親が要介護状態になった時に初めて自分が「介護問題」の当事者であったことに気づかされたのだといいます。

わたしは社会の一員として生きている。
というよりも、社会とは私が生きることでつくられている。わたしたちが「生きる」ということは、「なにかの当事者となる」ことなのではないだろうか。
自分自身が、自分の生きる社会の主人公になる。すると同じ舞台に立つ隣の人への想像が膨らみ、それまで他人事だったことが自分事として感じられるようにもなる。ごく小さなものだと信じ込んでいたわたしの舞台が、どこまでも広がりをみせていくことに驚きもする。
みんなが隣にいる誰かへの想像力をもつようになれば、まわりまわって思いもかけない方向から、誰かがわたしの小さな困りごとを助けてくれる気がする。そういうのってなんだか素敵で、とてもふくよかな社会に思えるのだ。

とても素敵な文章ですね。

ふくよかな社会ってなんだか良い。

ふくふくさせることって幸せです。(3月のライオンというマンガを読んでいるとそのように感じてしまいます)


この文章を読んでいたので、私自身も「小さな困りごと」を抱えている「ほんのちょっとの当事者」として、表現してもいいんだなと思ったのです。この本があるおかげで勇気が出たというか、noteというやさしい場所ではここにいていいんだなと思いました。

2.声を上げられない弱っている人

第3章の「奪われた言葉」が印象に残っているので、紹介します。

青山さんは、ある事件の裁判の傍聴にほんの少しの好奇心から参加することとなりました。

その事件は、ネットカフェで赤ちゃんを出産した女性が我が子をその場で手にかけてしまった事件でした。

大変鬼畜な行為に「どんな女性がそんなことをしたのか。顔を見たい」「なぜそんなことを」と思って参加に臨みました。

裁判では被告人のクミさん(仮名)が現れましたが、抱いていたイメージを覆すような大変地味な印象の女性で、存在感がなかったそうです。

そして、彼女の発言は強い主張や思いは込められておらず「彼女自身の言葉」が聞こえてこない印象を受けたと著者は述べています。

女性と子どもを支援するNPO団体の女性が、クミさんと関わった証人として、クミさんの生育環境や思春期の親娘関係について証言をしました。

そこでは、母親がクミさんの存在を否定するような多くの言動があったとして、著者は「母親が娘から言葉を奪ったのだと確信した」と記しています。言葉を奪うことで思考をも奪う。
そして今度は度重なる心理的虐待行為で彼女の人生までも奪おうとしている。

著者もご両親との親子関係に悩まされていたそうです。しかし、著者はクミさんと違って「読むこと」「書くこと」について自由でした。

いつだって「言葉」が私を救い、支えてくれている

著者はクミさんが奪われた言葉を返す人がいなかったのかと、痛ましい事件に触れて思いを馳せています。

「彼女が自分の言葉を取り戻さねばならないのだ」ということばで締めくくられたこの章は、当事者や社会的弱者が声を上げづらいことをうきぼりにしていると思います。

3.当事者だらけのSNS

有名でない一般人の方でも、誰だって、自分の事を発信しやすい世の中になりました。

noteの世界をのぞいていても、たくさんの当事者「ほんのちょっとの当事者」たちが何気なく過ごしている毎日が見えてきます。

お互いに想像しあって、その人の色に触れて、自分の色に混ぜて、ほんの少しでも自分事になると、やさしい関わり方ができるようになるのでしょうね。

もし上記に挙げた、青山さんが「ほんのちょっとの当事者」だと思った項目を見て「私も同じようなほんのちょっとの当事者だな」と重なる部分があったのなら、読んでみてはいかがでしょうか。何かおもしろい発見があるかもしれませんよ。




この記事が参加している募集

サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。