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つまみぐい【一】

煮物はしていないが、コンロで手羽中の肉を焼きながら、あることを考えている。

最近「自分が何をされたら嫌なのか」が、あらためて見えた。

こんなことは、おそらくわからない方がいいし、わかったところでどうしようもないのだけども。

小さな「嫌」は、どんどん雪だるまみたいに転がって、止めることもできずに勝手に大きくなってしまう。

一度開いてしまったニットのセーターの穴も、ほつれたところは気づくと昨日より広がっている。

大きくなった「もう無理!」は「怒り」に転じやすい。小さな「嫌」から距離を取るのは大事なことだなと思っていた。


私は、自分のことは可能な限りは自分で決めたい。

誰かに「この人のためにこうしてあげて」とか「あなたはこうしないとダメだよ」とか言われること、言われそうな雰囲気がたまらなく嫌なのです。

意見をただ聞くことはできる。

でもそれを最終的に選ぶのは私なんだよねって思う。

そこには、ありがとうごめんねが混在してる。

気持ちは受け取ります。ありがとう。

でもせめて私のことだけは私に決めさせてね。
あなたのことはあなたで決めたらいい。

そういうところが「頑固」と言われる所以なのかもしれないけども。

他の人はどう考えてるんだろうと思ったりする。

手羽中は照り焼きの下味をつけた。コンロを引き出すと、きつね色のいい色合いになってきた。息子が手羽中のお肉が好きなのだ。手羽先でも手羽元でもなく手羽中一択。


ブックカフェに行く前に選書をした。

選書する中で、本を最近まともに読んでなかったことに気づく。

私はいつも、本をつまみぐいするように読む。

一冊を読み終わってから次!という感じではなく、今日はこの気分、明日はこの本を進めてみようと、気まぐれに読む本を手に取る。

今回選ばれなかった本たち。

つまみぐいのように読んだものを自分のために振り返ってみる。

「坊さん、ぼーっとする。」

今、必要なのは、情報でも評価でも判断でもなく、
期待せずに、平気で待つ勇気。

『ボクは坊さん。』(2015年映画化)から10年――
秘伝『理趣経』をひもときながら綴る、進化するポップな坊さんの現在地。

「人生ってなんだと思う」 小学校二年生の長女にたずねてみた。
「人生は思いだよ」
こともなげに娘は少し哲学的に響く言葉で即答した。
「ふーん、そうか。人生は思いか……」
しばらく沈黙の中で、思索しながら僕は言葉を失う。
そして娘は静かにそばに寄り添い、
「お父さんの体はあたたかいね」
と新しい言葉を発する。

Amazon紹介文より

作者は栄福寺というお寺の住職さん。
そして、この本はシリーズ化されており「ボクは坊さん。」と「坊さん、父になる。」の前著もあって、その続きの本になっている。


昨年からずっと「怒り」について悩んでいる。

「怒りをかなしみに」ということをどこかの本で読んで、かなしみに変えよう変えようと努力してきたが、それだけだと自分が苦しくなることもあった。

そんなことを友達に話したら「そりゃ難しいよ」と言われた。私はかなり無謀なことにチャレンジしていたのかもしれない。

今回の本はブックカフェに行く道中のバスで、上記のやり取りと共に友達に紹介している。

 つまり単純に「怒り」を否定しないのです。少し哲学的な話になりますが、仏教がその思想において一見、否定しているように見える「エゴ(自我)」もそうです。「怒り」にしても「自我」にしても、さまざまな階層があると考えています。

 空海の密教では持つのであれば<大きな>(それはたとえば「微細」とか「巨大」などとも言い換えられるでしょう)「怒り」や「自我」を持ちなさい、と言うのです。空海はそれを「大我」と呼んだりします。

 その<大>は<小>に対する<大>のような相対的なものではなく、<絶対的な大>です。なので、怒りを消そうとするよりも、もっとスケールの大きくて絶対的な「怒り」「自我」に着目するというのもひとつの方法かと思います。

「大我」?

この大きな、絶対的な怒りについて、ピンと来ないという話を彼に伝えた。

大きなスケールの怒りに着目するとは.....??どういうこと?

 もう少し現実的な話をすると、私自身は小さな害のある「怒り」を「エネルギーの流れが行き場を失っている」ように捉えています。ですので怒りを消すよりも、自分の持っているエネルギーの行き場を見つけてあげる、心と身体のエネルギーの交通を循環させるような方法がいいと思っています。

「エネルギーの流れが行き場を失っている」

川の流れのようにせきとめておくと、いつの日か水かさが増して、洪水のように溢れ出てしまう。

どのように流していけばいいのか。ここの部分だけだとわからない。

 一切の有情の平等の故に、忿怒は平等なり。一切の有情の調伏の故に、忿怒は調伏なり。一切の有情の法性の故に、忿怒は法性なり。一切の有情の金剛性の故に、忿怒は金剛性なり。何を以ての故に。一切有情の調伏は、則ち菩薩のためなり。
【現代語訳】
 生きとし生けるものはすべて、本質的に差別がなく、平等であるから、(慈悲にもとづく)怒りのはたらきも平等である。すべての生きとし生けるものを制し伏する(調伏)から、怒りは、制し伏するという働きを持つ。すべての生きとし生けるものは、それ自体が本来、清浄な性質を持っているから、怒りも清浄な性質を持っている。すべての生きとし生けるものはすべて極めて堅固な性質を持っているので、怒りもまた極めて堅固な性質を持つ。それらは何故なのか。それはすべての生きとし生けるものを、制し伏する(調伏)のは、覚るためだからである。

 密教では、人間が本質的に持つ「怒り」や「生きるエネルギー」をむしろ大切に用いようとします。この引用箇所にあるように、生命は本質的に平等であり、怒りの働きも平等に持っています。そしてこの怒りの「調伏する」という働きを用いて、「覚り」という場所に連れて行くことさえできるのです。

 それを僕たちの生活の中で活かそうとするならば、自分の不機嫌の表現としての怒りではなく、「相手をよりいい場所へ連れて行く」ための怒りを用いるということでしょう。

「怒り」のような人間が持つ一見否定的に見える感情も、奥を覗き込むと肯定性の力が潜んでいることがあります。たとえば「逃げる」ことなどにも、意外と確固とした理想を持つ自分の心が見えたりすることがあります。
 そのような今まで見過ごしてきた負の感情を、じっくり覗き込む勇気を持ってみましょう。そこには、あなたの理想を実現するためのエネルギッシュな熱量が閉じ込められています。

怒りに蓋をせず、よく観察すること。
怒りを無理に無くすのではなく、そこから理想を描く自分を見出すこと。

今はそのようにするしか手立ては思いつかない。大我というものがどういうものなのかをまた考えていきたいと思う。

もう一つ取り上げたい箇所は「自由自在」について。

「ほっとく」
「やめるものを決める」
「あると言ったほうが近い、ある種曖昧な存在に目を向ける」
の3つの行為が
「私の思い通りにしよう」という心を解き放つ試みとなるとのこと。

一切の法において、皆自在を得
【現代語訳】
この世にある、あらゆるものに対して自由自在になることができて

著者は師匠から「この自由自在は元々、仏教の言葉ではあるが、今使われているような"自分の思い通りにする"という意味ではないよ」と言われたとのこと。

むしろ意味は逆。

「自分にこだわりすぎると、自由にも自在にもなれない。もっと<大きな世界>に自分を同化させ、飛び込んで、我を残さないこと」

 まず「自分の思い通りにしたい」という気持ちを"かっこ"に入れてみる。他者や世界に飛び込んでみる。その後で現れてくる「私」は、一味違う存在なのだと思います。

これは道徳の話というよりも、技術に近い話であるそうだ。
そして「自分の意見ではなく、他人の意見で動きましょう」という話ともまったく違う話になるとのこと。


2つとも、今の私に必要なことだと思う。

いつの日か

飛び込んで委ねても、己であることは変わらないという心の強さがほしい。

私はすぐに、気弱になってしまう。
すぐに相手が入り込まないように鉄壁のガードを作り上げてしまう。機動隊員をすぐ出動させている。不穏因子を取り締まりたくなってしまう。それはある意味、自分の心を保つためにも大事なことではあるとは思うけども。

私にとって大切な相手ほど、私を知っていてほしい。

私という人間の解像度を高く持っていてほしいのだ。

しかし、そんなことからもいつか執着を手放したい。

私はたとえ自分がいなくなって、離れた距離にいってしまっても、相手の心に自分のカケラのようなものを置いておきたい願望があるので、全部を捨てるのは難しいと思っている。

だけども、そのようなものからも、いつか心を放せたらいい。

未熟な自分を今は知る。

またそこから進めばいいと思っている。


手羽中は息子がきれいに食べた。
彼は軟骨までがりがりと食べるくらい鶏肉が好きだ。

残された骨を見た。
最近書いた創作の話でもないのだけども、私はもう大丈夫と思った。


雨粒がまた屋根をたたいて大きな音を立てている。

洗い物の水の音が、耳の奥にいつまでも響き渡っていた。

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くま
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