「才能」ということばと少しだけ仲良くなれたかもしれない夜
「才能」ということばが実は以前から少し苦手だ。
「あの人は才能がある」とか「ない」とか、目の前の相手が話している時。
はたまた「あなたは才能がある」と誰かに言われた時。
私はなんとも言えないもやもやとした感情を抱く。そのもやもやが何であるのかが、正体をつかむことがいまだにできていない。
つかめていないが、今回はできる限り言語化してみる。
私はおそらく、「才能」ということばが持つ力以上のものを「才能」から感じとっているのかもしれない。
それは、今までの人生で「才能」ということばが使われた場面で、一種のトラウマ的な体験があった。ぱっとそんな場面を今は思い出すことはできないけども、そんな仮説を打ち立ててみた。
ことばは、ある物事を分節する力を持っている。
分けられるのは
そうであるものと
そうでないもの、だ。
「才能」ということばが作り出す世界は
才能があるものと
ないもの
という2つの世界。
そこに私は、評価している上の立場と評価されてしまう下の立場をなんとなく連想してしまっている。そして一種の暴力性すら感じている。
ここまでの話は、私のアンテナがおそらく過敏すぎるだけの話であると思っている。私の中の「才能」という「概念」が歪んでいるのだ。
そんなことを感じてはいるが、このまま話をすすめていく。
「あなたはこの分野の才能がないからこっちでやってみてはどうか」
と言われた人がいると仮定しよう。
言われた人は、その分野でも取り組んでみたかった気持ちがあった場合。
やはり、言われた方は落ち込むのではないかと想像する。
私は今日も娘に頼る。
私の娘は、私の曖昧な話に付き合ってくれるやさしい仲間の一人だ。
夕飯後にこんなことを投げかけてみた。
「ねえ、才能ってことばが好きになれないんだけども『才能がある』ってどういうイメージ?」
「うーん......」
困ったような苦笑いをしたあと、ある一点を見つめて長考している。
「多くの人に認められるもの?」
やっと出てきた娘の発言に私は尋ねる。
「じゃあ、みんなが求めているものを作り出せる人が『才能』があるってこと?」
「いや、違う......違う......待って」
ここで話題は違うものに変わった。
哲学やデザインからものごとを捉えることについて、私は最近読んでいる本の内容を話した。
そしてひと段落ついた頃に娘が
「さっきお母さんが哲学的に問うことについて話していたけども、『才能がない』という状態はどのようなものなのかを考えてみた。それで思ったのが」
「才能っていうのは誰にもあるんだよ」
と言い出した。
「合う合わない。好みの問題であって」
「何か賞がつくものがあったとして、それを選ぶ人の好みがある」
「私は思うんだけど」
「あなたは才能があるって言う人が一人でもいてくれたなら、その人は才能がある」
「そう、私は思いたい」
娘は自分の思考をつかまえるように辿々しく話した。
「それは、そうやって思ってくれる人が、たとえ世界に1人しかいなかったとしても?」
と私は尋ねた。
娘は「そう、1人しかいなかったとしても。その人が相手にそう感じているなら」
と答えた。
娘が紡いだことばから作られた世界はいつもやさしい。
この人は自分が傷ついた経験から、なるべく同じような人が増えないような努力をしている。
そういう人が私は好きだ。
私はこの話を聞いて、もしかして「才能」ということばと、少しだけ仲良くなれるかもしれないと思った。
「言い表したいものは才能でないのかもしれない」
とも、娘は追加で話した。
「『才能』ということばが使いやすいから使っているだけで、結局はあなたの作ったもの、表現したもの、できることに、何かしらひっかかるものがあって、関心があって」
「そういう気持ちの方向性を表したいだけなのかもしれない」
「私は私の中に入り込んで影響を受けたものがたくさんあるんだ」
娘はそれらを思い出しているのか、とてもあたたかい表情をした。
たとえ望んでいる人が1人しかいなかったとしても。
むしろ届けたいのは1人でもいいのかもしれない。
私はこの記事も、自分のために書いていると同時に、なんとなくどこかの誰かに向けて書いている。
私はこれからもあなたの書いたものが読みたい。
それがたとえ、他の人が望んでいる方向性でなかったとしても。
私はあなたの生み出したものにふれたいと切に願っている。
今届けたいのはそんな気持ちである。
そんなことを思った夜があるということを、ここに置いておきたい。
noteはそんなことも許してくれる場所だと思っている。