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宛らあなたは

想像する。
惰性で流れるシネアドが終わり、場内の照明が全て消えて、疎らに聞こえていた会話が静まるあの一瞬。
想像する。
ケーキに刺さっている蝋燭の火を一気に吹き消して、誰もがそれを固唾を呑んで見守るあの一瞬。
想像する。
台風が来る前の不穏な空気と、それに比例するように増していく高揚感。消灯時間で真っ暗になる夜行バス。朝日が昇る前の一番濃い夜空。機材チェックが終わって静寂に包まれるライブハウス。

間違いなく"今、始まるんだ"という確信。それを頭で理解する前に、血流に乗って全身に回っていく感覚。始まりと終わりは余りにも感触が似ていて、時々区別が付かなくなるけど、もしかしてそれは広義では同じなんじゃないかと気が付いたのは二十歳の頃。終わらせる為に始めたこと、始める為に終わらせたこと。全てが地続きなら、立つ場所によってそれらは全然違う見え方になるということ。そして、踏み出してしまった一歩の理屈や解釈なんて、後付けでどうとでも塗り替えられるということ。

2022年ももう半分が過ぎて、また一つ歳を重ねた所感としてあるのは、今年は命について考えさせられることが多かったなということ。

昨年の暮れ、私は一人の女性と出会って、ある意味では私自身がこれまで生きてきて解消されていなかった違和感たちと強制的に向き合うことになった。けれどそれは言葉通りの脅迫めいたものではなく、彼女はごく自然にそのきっかけをくれたにすぎず、私はそれをどうしても運命だと言ってみたくて、こうしてこれを書いている。人はなぜ生きるのか。そもそも生きるとはなんなのか。命とは、人生とは。その純度を失うことが死なのか。

人間は膨大な時間の流れの中で、考えなくてもいいようなことを身を削って考え、もしくは考えなくてはならないことを放置することで神話化し、どうにかして俗世から切り離されようとしている。現実はどんな創作物よりも残酷だから、どうにかして見ないようにしている。だって作られた物語は、エンディングのその先にあるはずの、良くも悪くも平凡な生活を一縷も語りやしない。そんな怖いものは誰も求めていないからだ。我々はいつからか既に知っている。この世に起こりうる全てのことは、なんの変哲もない事象の一つでしかなく、それを頼りに生きてみたり、それのせいで死ぬ程苦しんだりすることの滑稽さ、脆弱さ。今目の前に広がる光景が、そんな前提の上に成り立っているという心許なさ。にも関わらず、自分という存在から生まれる感情だけは本物だと(信じたいと)いう矛盾。

私は、彼女ほど潔白で、生きるということに対して真剣な人間を見たことがなかった。それは偉い、卑しいではなく、善い、悪いではなく、生産性でもなく、雁字搦めにされた基準やその中央値でもなく、戦地での英雄も時代が変われば殺人鬼になるように、移ろっていく価値観でもなく、もっと本質的なこと。彼女はそんな見えない敵とずっと戦っていて、私もその傍で一緒に戦っていたいと思った。だから彼女の全てが愛おしく、同時に眩しくもあった。
彼女と出会った時、私の中で"今、始まるんだ"という予感が大きく渦巻いていたのだ。そして一緒に上京してきた今も、私たちの生活はその渦中にある。

喧嘩して泣いている彼女を走って迎えに行ったら入れ違いになったり、予定通りに全然進まなかったりするけれど、朝、寝ぼけながら手を振る彼女に見送られながら向かう仕事は不思議なくらい心地いい。休みの日はNetflixで気になる映画やドラマを見たり、たまに好きな音楽や本を共有したり、近所に住み着いている地域公認の野良猫を一緒に可愛がったりして、夜はちゃんと隣で眠る。それだけでいい。「それだけでいい」は、こんなにも愛だ。

荷は重ければ重いほどいい。業は深ければ深いほどいい。
私はずっと彼女に振り回されていたい。

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