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あの渚が遠い

刺し違えてでも殺してやりたい過去があるから、生傷の絶えない体に染みるぬるい風。遺影みたいな選挙ポスター、自販機の横に貼られた怪しい広告、ジャンプの新刊で取り戻す曜日感覚、文末にかけて次第に失速する詩。こんなに暑いと煙草も不味くて困る、そんなぼやきも解体現場の騒音に掻き消されて、確かにその時、私は安心したのだ。塗り潰して、重ね書きして。見たくないものの方が明らかに多いから。

サマーソニックの投稿ばかり流れるタイムラインをスクロールして、ぼんやりと夜道を歩いている。部屋干しの匂いがするTシャツに汗が垂れる。街灯に照らされる裏路地に私の影だけが伸びる。あの時言いたかったこと、思いついた時にはもう時効になっていて、思考だけが周回遅れだから、私が追いかけているあれは、私の後ろ姿なのかもしれないと気付いた時、徒労感がどっと押し寄せる。でも振り返る手間が省けて助かるような気もしている。どちらにせよ、進む道は同じなのだということだけが事実で、どうにか自分を言いくるめて、重たい足を引き摺るしかない。その様子は傍から見ればみっともないかもしれない。滑稽かもしれない。でも格好悪いとは私は思わない。客観視なんかするな。どれだけ俯瞰しようとしたって、結局それは私というフィルターを通してでしかない。

人間は死によって完成されるって言った人がいるけれど、それではまるで死ぬその瞬間まで生きていることに何の意味もないと言われているようで嫌だ。更にそれに反論できる理も根拠も私の中に存在しないのがもっと嫌だ。人に(人に限らずこの世の全ての生物に)、完成も未完成もない。有能も無能もない。上等も下等もない。だけど社会という集団はそれでは機能しないらしい。強い者が統べ、弱い者は淘汰される。それは至極当然の話なのだが、その強弱の基準だって人が決めている。何の茶番だって思う。暴力を嫌うくせに、数という暴力の基に切り捨てられた側のことを考えない。知能、効率、合理性。数字、損得、金勘定。ああもう全部鬱陶しい。

上には上がいるし、下を見たってきりがない。横に並べば追い抜き追い越せ。人間によって作られた都合のいい価値基準に踊らされて、社会から見た相対的な評価に依存した生存競争によって、本来の自分という尊厳まで捨てたくない。私が人生に対して求めていることなんてそれくらいなのに、どうやらそれが難しい。ただ生きて、死ぬ。それがこんな小賢しいことであってたまるかと思うのだ。客観視なんかするな。俯瞰なんかするな。もっと正しくは、客観視なんかした気になるな。俯瞰なんかした気になるな。断定して楽しようとするな。優越のためにカテゴライズするな。

こんがらがった頭を冷やすために公園のブランコにのる。缶コーヒーを片手に空を見上げる。ベンチにはホームレスが膝を抱えて眠っていた。
あの渚が遠い。

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