人の役に立ちたい。その為に必要なことは、何もしないことだった…。
私たちの意識できる世界
顕在意識の世界は
ほんの数パーセントに過ぎず、
ほとんどが無意識の世界。
そして
その無意識の世界こそが
その人の真実や可能性に
つながっていると
言われています。
さて、
このような心や
魂の世界
宇宙の法則について
何も知らなかった頃。
私はいつも
周りに振り回されるような
人生ばかり送ってきました。
人の役に立ちたい
そう思って行動すればするほど
どんどん
苦しくなっていきました。
きっと
人の喜ぶことをしたい、
人の役に立ちたい
という私の思いの奥には
そうすることで
必要とされたい
自信がもてるようになりたい
という思いが
あったのだ思います。
私はずっと
自分に自信がもてなくて
このままの私ではだめだ
自分には何かが足りない
そう思っていたのです。
だから
誰かの役に立つことで
何とか自分の存在価値を
見出そうとしていたのだと
思います。
つまり私には
誰かを助ける状況が
どうしても必要だったのですね。
私のアンテナは
常にそういう出来事を
キャッチするために働いていた
ともいえるかもしれません。
でも
どんなに人の為に頑張っても
心から満たされることは
ありませんでした。
自分に自信がもてなくて
私には何かが足りない
いつもそう思っていた私は
無意識のうちに
相手の中にも自分と同じものを
見ていたのだと思います。
私が私自身のことを
素晴らしい存在と思えていたら
私が私を信頼出来ていたら
きっと相手の可能性を
信頼することが出来
何としてでも助けなければという
思いにかられることも
なかったのかもしれません。
ここ2、3年
「自分を犠牲にする」ことをやめ
ただただ
「自分を満たす」ことに
専念してきました。
その過程の中で
自分がそれまで
大切に握りしめてきたものが
自分にとって
それほど必要なものではなかったことに
気付いていきました。
そして
私が何とかしなければと
思っていた問題においても
私に出来る事はなかった
ということにも気付きました。
むしろ
私がしなければならなかったことは、
何もしないこと
相手を信頼することだったのだと。
人生は学びの連続。
そして、その学びは
その人の準備が整った時初めて
その人自身の気付きによって
もたらされるもの。
良かれと思って差し出した手が
もしかしたら
相手の学びの機会を
奪うことになるかもしれません。
ましてや、
一方的な忠告や戒めは
火に油を注ぐようなもの。
問題と向き合うことから
遠ざけてしまいかねません。
こうであるべき…
そんな理想が
相手に向けられた時
問題の本質を覆い隠し
見えなくしてしまうのですね。
もちろん
誰かを救うこと
人を助けることを
否定している訳ではありません。
実際
今すぐ救うべき状況
手を差し伸べるべき状況というのは
たくさんあると思いますから。
仮に
手を差し伸べる必要があって
今自分がやれることを精一杯した。
それでも
相手を救うことが出来なかったとしたら
それはそれで仕方がないことで、
そのことに
罪悪感を感じる必要はなくて、
相手を信頼して
今出来る精一杯のことをしたら
その後のことは相手に委ねる。
それで良いのだと
そのように思うのです。
結局
その人が幸せになるかどうかは
その人しだいなのだから。
幸せになる責任は
いつも自分自身の中にあって
どんな時も
それぞれが自分の責任で
自分が見たい世界を創ることが出来る。
私たちはいつだって
幸せになることができるのだから。
そんな風に考えていくと
もしかしたら
目の前の出来事に
一喜一憂する必要さえ
なくなるのかもしれません。
ただ、
そうは言っても
聖人君子のように
何が起きても心穏やかでいる
というのは難しいでしょうから
心が揺れ動いた後で
それでも
相手も私も完全なんだと思えたら
それでいいのかなと
今はそんな風に思います。
目の前の人を完全と見る
そうすると
最善を尽くした後には
相手への信頼という
清々しい気持ちだけが
残るような気がします。
見返りも感謝も期待することなく。
随分前のことになりますが
ある講座で
こんな質問をした方がいました。
「相手のために何かをした時
その場で
目に見える変化や成果
反応がないと
不安になります」と。
講師の先生が
次のようなことを
おっしゃいました。
「仮にその場で
目に見える分かりやすい変化や成果が
なかったとしても
その時
相手のために差し出せる
精一杯のことをやった、
その場、その時間を
その人と共有できた、
そのことに価値がある
私はいつもそんな風に思っています」と。
その時は
その通りだなと思いながらも、
実際、自分が質問者と同じ立場だったら
例えばそれが仕事であったとして
何らかの成果や
相手に喜んでもらえたり
ということがなかったら
自信をなくしてしまうだろうな…
先生のように
どんと構えてはいられないだろうな
と思いました。
でも、
今になってようやく、
先生の言葉が腑に落ちました。
相手の人生を信頼する
それに尽きるのだと。
あくまでも
変わる責任
幸せになる責任は
相手にある。
だからこそ
何としてでも
相手を救わなければ
幸せにしなければと
思う必要はないのだと。
例えば
ある人の人生のテーマが
「愛を学ぶ」だとしたら
大きな愛を学ぶために
もしかしたら
想像を絶するような
悲しみや苦しみが
必要になるかもしれません。
そう考えたら
その人の今置かれている状況が
見るからに悲惨な状況であったとしても
それを一概にかわいそうとは
言えなくなくなります。
そんなことを言ったら
薄情と思われるかもしれませんが
もしかしたら
それはその人の自己実現の過程において
どうしても必要なこと
なのかもしれないからです。
そして
どうすべきか、その答えも
その渦中には
誰にも分からないのだと思います。
いずれ本人が
時間をかけて気付いていくもの…。
よく
あのことがあったから今がある…
と過去を振り返り感謝するのは
そういうなことなのでしょうね。
さて
先日久しぶりに家族で
「風立ちぬ」を観ました。
飛行機に対する二郎さんの情熱。
そこには
どこまでも
自分のスキが溢れていました…。
貧困、病気、戦争。
病に伏す菜緒子さんとの限りある時間。
菜穂子さんとの時間を削ってまでも
飛行機を作ることをやめなかった二郎さん。
果たしてそれを
薄情と言えるでしょうか…。
そこには確かに愛があった…。
二人には共に
今を精一杯生きたい
という強い思いがあった…。
私にはそんな風に見えました。
そして
日本の歴史を振り返ってみた時
今、私たちがこうして
幸せに暮らすことが出来るのは
日本という国が
過去にそれだけ
深い悲しみと苦しみを
味わったということ…
そのことを
よく理解しておかなければ
ならないのだと
改めて感じました。