多様な出会いは「共感の種」
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
先日、朝日新聞の「折々のことば」にこんな言葉が。
よくしなる綱の上の踊り子を見上げる群衆は、いつの間にか自分の体をくねらせよじらせてバランスをとる。(アダム・スミス)
鷲田清一氏曰く、この経済学者は「ひとには他人のことを心に懸けずにはいられない性向がある」と言っているとのこと。
確かに、身近な所に不機嫌そうな人がいるとこちらもイライラしがちになるし、にこやかな人が傍にいればこちらも自ずと心がのびのびしたりします。
マリオカートというゲームがありますね。先の「折々のことば」を読んで、実は真っ先に念頭に浮かんだのがこのゲームでした。
あれ、プレイしていると、あるいはプレイしている人を見ていると、ついこちらの体も「一緒になってコーナーを曲がる」ってこと、ありませんか?
キャラクターがカーブを右に曲がろうとすると、コントローラーを握りながら、自分も思わず右に体を傾げちゃうんですよね……。私が単純なだけかもしれないけど(笑)
こういうことを考えると、アダム・スミスの言う通り、「私たちには、他人の立場になろうとする性向がある」と言える気がします。
一方、ふとこんなことも思い起こしてしまう。
それは、ネット上の中傷や嘲笑です。
今の私がこのことでまず思い出すのは、沖縄の座り込み運動に対し、恣意的にごくごく一部の場面を切り取ってその運動を嘲笑してみせた某氏の言動でした。(詳細は書かない。名前とかにも敢えて触れない……。)
私の知人、友人の中にも、沖縄の置かれている現状に心を痛め、憤りを覚え、行動や発信をしている人たちがたくさんいます。その中には、実際に座り込みに参加したり、カヌーに乗ったりしている人もいます。
私はというと、心を合わせつつも具体的な抗議行動まではなかなかできぬまま、その人たちを応援する形で辛うじて繋がっている……という程度です。そんな自分を歯痒くも思いますが、私には私の置かれた場所でできること(たとえばそれが「忘れることなく心に懸け続ける」といったことであっても)を一つずつやろう、という思いでいます。
そんなところへ知らされた「あの言動」や、その後の一連のやり取りには、単なる憤りを超えて、やり切れないというか、情けないというか、「どうして人ってこんな非情なこともできてしまうのかな」という絶望感を抱きました。
冒頭に引用した「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という聖句は、恐らく多くの人が聞いたことのある有名な言葉です。
私の職場のようなキリスト教主義学校では、きっとほとんどの生徒さん、教職員の皆さんが「知っている」と答えるでしょうし、「良い言葉」「良い教え」として好ましく受け止められていることだと思います。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。
それはとても大事なこと、とても大切な教えだと多くの人が理解できるのに、現実には喜ぶ人を誹り、泣く人をさらに踏みにじる、そんな有様があちこちに見られるのです。
アダム・スミスさん、そこんとこはどうお考えになりますか……?
思うに、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という共感は、相手のことや相手の感じているものを「ちょっとは知っている」から起こるのでしょう。
サーカスの踊り子を見上げる人たちは、平均台のような不安定な場所を歩いた経験を思い起こすから、知らず自分の体をくねらせるのではないか。
スピードを出した自転車でカーブを曲がった経験を思い起こすから、マリオカートをしながら思わず体が傾ぐのではないか。
……ということです。
全く同じ経験でなくても、対象が完全な知り合いでなくても、「何となくその状況について想像できる」ようになるためのよすがが自分の経験の中にあること。
そこが、共感の種になるのだと思うのです。
であるならば、私たちは「さまざまな人」と出会う必要があります。
住んでいる地域や国の違う人、経済状況の違う人、ルーツの違う人、セクシュアリティの違う人、経歴の違う人、年代の違う人……。
「自分とは違う人」と出会うことで、それまでの自分の中には無かった「共感の種」が蒔かれて、より多くの人と「共に体をくねらせる」「共に喜び、共に泣く」という生き方が生まれてくるのではないでしょうか。
子どもの頃は「学校」という、かなり同一性の高い集団の中で長時間過ごします。
大人になればなったで、「職場」や「家庭」といった所で過ごす時間に拘束されがちで、意外と私たちの「世界」は広がらない気もします。「教会」という場所は、それよりは少し開かれた、多様な人の集まりになり得るかもしれません。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことの種蒔きの場として、教会が役割を果たせたらいいな、とも思うのでした。