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人と向き合うとき、僕が信じていること———個人理念について
世の中、ほとんどの人は信用できない。
ほとんどの人は、人を貶めるのが好きで、頭が悪くて、自分のことしか考えていない。
だから、私はそもそも他人になんの期待もしていない。基本的に人に本心や自分の過去を言わないし、誰かが親切に見える行動をとってもまずは裏があるのではと疑ってかかる。
僕の身近にこんな風な人間観をもっていると明言する人が数人いて、驚いた。
そして、勝手に使命感を燃やした。
おせっかいかもしれないけれども、俺は、自分と関わる人にこのようには思ってほしくない!
思ってほしくない、というか、ほとんどの人は誰かが傷つくのを見るのはつらいし、周りの気持ちを考え思いやっているし、あと先考えず利他的なことをしたりもする。冷静に観察していてそう思うのだけど…。
今日は話が長くなるぞ。
撃たれない銃
戦場で、ほとんどの銃は撃たれないという。
戦う相手との距離が近くなるほど、つまり前線の兵士ほど、相手に親密さや思いやりの念を抱きやすくなるからだ。
相手を真正面から見て、向き合わざるを得なくなると、人は気づく。相手もおんなじ人間だと。「あちら側」の野蛮人は、僕らと同じ「こちら側」の知人になってしまう。
そんな具合だから、敵意を継続させるのは、上官や政府にとってむしろもっとも骨の折れる仕事なのだ。
彼らにとっては幸いなことに、戦争で死ぬ人の数は、より遠隔で攻撃でできる武器が増えるたび増した。人から罵倒される人の数がSNSの登場で爆増したのと似ている。
同じ人間をあちらとこちらに切り分け、あちらを敵とし、疑い、決めつけ、耳を傾けず、自分たちの属す集団を特別視する人は、いつもテレビやニュースなどのメディアから情報を得ていた。
メディアはこう言う。
自分の近くにいる家族や親友、あるいは、〇〇人(その時々の「こちら側」の人)は信用でき、強い精神力を持ち、賢いが、あちら側の人たちはそうではない。人を見たら感染者だと思え、的な。
あちら側の人は、どうしたって理解不能で、そもそも相容れない存在なのだ。理解しようとすると危険な思想に取り込まれてしまう。だから、強力を用いて従わせる必要がある。排除する必要がある。
メディアは、嘘をついたわけではない。このような考えを信じる人が増えれば、まさにこの通りのことが実現するからだ。疑う人は疑われ、微笑まない人は微笑まれない。
他者への期待はまあまあ実現する
他者に期待しない人は、どのように振る舞うだろう。
まず、相手のことをじっくりと見ようとしない。見る気がないから見えていないことだらけのはずなのに、あいつはこういうやつだとわかった気になる。(人間てそんな単純だっけ?と思い出してほしい)
そして何より、待てなくなる。「宿題はやったの?いつまで放置する気なの?」とイライラしながら尋ねる母親みたいになってしまう。
相手が何を言っても、そこに善意や奥深さが隠れているとは思いもしない。なんなら、もう耳を傾けたりする必要はない、と距離を置く。だって、有意義なことを言うはずがないんだから。
こういった他者への期待は、どう取り繕っても、視線やボディランゲージ、声の調子に自ずと表れる。
すると、相手はどう考え、どう振る舞うか。
どうせ何を言っても、どんなことを成し遂げても、悪い方に解釈される。よくても「(悪)運が良かったな」と言われるくらいだ。宿題をやっても「今日は雪でも降るのかしらね」と小言を挟まれる。
それなら、とベストを尽くそうとしなくなり、それが周囲の期待をさらに減らし、パフォーマンスはいっそう下がる。余計に軽蔑され、ひどい扱いを受け、憎悪を募らせる。あるいは、打ちひしがれ自分を呪う。
この問題については前にも触れた。
ピグマリオン効果とゴーレム効果
マイナスの期待が相手に影響し、その成就を促してしまう。
劣った生徒をさらに落ちこぼれにし、ホームレスに希望を失わせ、孤立したティーネイジャーを過激化させる。
このような現象には、ゴーレム効果と名前がついている。かっこいい名前だ。闇カードっぽい。
そして、ゴーレム効果には、これと正反対のものがあり、そちらにも名前がついている。そっちはピグマリオン効果という。今から半世紀以上も前に命名された。
「他者から期待されていると学習や作業などの成果を出すことができる」というピグマリオン効果は、最初はラットの実験で、続いて小学校の児童への実験で確かめられた。
現在に至るまで、軍隊、大学、裁判所、家庭、老人ホーム、組織内での数百の研究によって検証され、やはりこの効果はあると結論づけられているそうだ。
✳︎
ピグマリオン効果とゴーレム効果を知るまでもなく、僕らは次のことをなんとなくわかっていると思う。
どんな人の中にも、当然“俺を貶めたあいつ”にさえも、「こちら側」と認めている人に優しくしたい気持ちはある。たとえば、自分の息子のためなら命を張ったりもするかもしれない。
で、彼にそういう優しい気持ちが少しでもあるなら、僕らはそれを引き出すこともできる、と思うんだ。別に息子にならなくてもね。
それどころか、ほとんどの人は自分の優しい部分を誰に対しても発揮できることを願っているから、実はちょっと手助けするだけでいいんだと思う。
丁寧にあいさつするとか、息子さんの話を聞くとか、笑わせるとか。
やることとしてはすごく些細なことで、誰にでもできることだったりする。
もちろん、できるからといって、簡単にやれるかはわからない。相手にもよるだろう。好きな人を信じるのは簡単でも、見知らぬ人を信じるのは難しいかもしれない。
頑なに自分は無能だと信じている人の成長を信じるのには、かなり意志の力がいるだろう。
小さな代償
基本は誰しも「こちら側」と認めた人に対しては優しくなれるし、誰かが意図して分断を促さない限り、出会う人のほとんどを「こちら側」として扱おうとする。戦場であってすら。
ほとんどの人は誰かが傷つくのを見るのはつらいし、周りの気持ちを考え思いやっているし、あと先考えず利他的なことをしたりもする。
知っての通り「こちら側」の範囲がうんと狭い人もいるけれども、その境界線はけっこうあいまいなもので、僕らが示す期待やちょっとした態度しだいで動かしえる。ピグマリオン効果は有効。
ここまでなるべく理屈で伝えてきたつもりだけど、いかがだろうか。
もう少し人に希望をもってもいいかもと思えただろうか。
✳︎
もちろん、信じたら裏切られることもあると思う。今めちゃめちゃ仲の良いあの人が壮絶な大どんでん返しを仕掛けてくれるかもしれない。
しかし、そういうのって少数の例外で、微々たるもんだと思って良いのでは?
そんなことはない!と感じたなら、信じることで得られるものを安く見積もりすぎているかもしれない。
僕の好きな言葉にこんなのがある。
時々は騙されるという事実を受け入れるほうがはるかに良い。なぜならそれは、他人を信じるという贅沢を味わうための、小さな代償だからだ。
『Humankind 希望の歴史(下)』
贅沢はお嫌い?
全員に優しくするのはむずかしい
さっきから信じるって言っているけど、そもそも、どれだけがんばっても出会う人全員を信じたり、全員に優しくしたりするなんて無理なんじゃないか。
もっともだ。僕だってむずかしい。半ば諦めている。
世の中に絶望し、誰も信じられなくなってナイフを持ち出し通り魔となった人が、たまたま自分を刺しに来たとする。その時、彼/彼女を笑顔で受け入れ、刺される瞬間には母親がするように抱きしめ「怖かったね。辛かったね。怒らないから、お話聞かせてほしいな」と言えるほど強い人はそういないだろう。僕もできない気がする。
でも、比喩としてはそれくらいの気持ちで他者を信じ迎えたい、と思う。あくまで、直接会って関わる人までだけど。
まあそれでいいんじゃない?
直接会って関わる人だけでも相当いるわけで(生涯で1000人は下らないでしょ)、その10%にでも信じている人が目の前にいると伝えられたらいい人生と言っていいんじゃないかな。ハードル低すぎ?
✳︎
合う人、合わない人というのは、どうしたっている。
あり得ないことだけど、お互いの全てがわかったとしよう。それでも、一緒には居続けられない人はやっぱりいるだろう。そういう人にもわざわざ出向いてエネルギーを割くべきか。
僕は、合わない人に積極的に優しくしようと焦る必要はない、と思う。ただ自分が直接向かい合えるところにいる時には、なるべく笑顔で両手を広げて「さあ、刺せ!抱きしめてやる!」の精神で向き合えるなら十分すぎるくらい立派な人なんじゃないだろうか。
ついでに、合わない人に攻撃的な感情を向けることを焦る必要もないと思う。向き合えない相手についての足りない知識をもとに、汚い言葉で罵るあなたは間違いなく周りに引かれる。アダム・スミスもどん引きだ。
怒った人の狂暴なふるまいは、我々を彼の敵に対して立腹させるよりも、彼自身に対して立腹させる可能性の方が大きい。『道徳感情論』
向き合い続ける自分を信じる
さっき、通り魔の人を「怖かったね。辛かったね。怒らないから、お話聞かせてほしいな」と抱き締めることを、信じることの比喩に使った(ほんとに通り魔がいたら逃げてください)。
この「お話聞かせてほしいな」の部分が、信じることをもっとも体現した行動だと思う。
たとえば、僕らがネガティブな人間観を採用している時「こいつが〇〇してしまうのは、頭/性格が悪いからだ」と結論づけ、これ以上話を聞こうとしない。聞いても言い訳に聞こえてしまうだろう。対話は成り立たない。ゴーレム効果発動。
しかし反対に、ポジティブな人間観を採用していたら「何かそうする必要を感じたのかもしれない」「誰かのためそうせざるを得ないけど、言えないのかも」「僕には〇〇するのが悪いことに思えるけど、違うかもしれない」と次々考え、相手の言い分を理解することに努めるだろう。
僕自身は、けっこう純粋に、どんな人の話(人生、考えてること)も面白いし、こちらの姿勢や質問次第で柔らかな表情でそれを語ってくれると信じている。基本は何を言われても怒らない。「う、苦ちい」とはたまに言うけど。そんなんだから、惚れっぽくて、すぐドキドキする笑。
もちろん、さっき言ったように会う人全員とずーっと関係性を続かせようと積極的になることは難しい。たまたま会った時に全身全霊で話を聞くだけ。
下のnoteにも書いたんだけど、
最初に会った瞬間に、この人をもっと見ていたい、理解したい、この人の魅力を引き出してみたいといったことを感じる相手というのが一定数いるんですね。どんなことがあってもこいつと向き合い続けることは辞めないだろうと確信できると言えばいいのか、とにかくそんな感じのする相手です。
こういう相手には積極的になります。一人暮らしを始めた息子に煙たがられるのをわかっていても、ちょくちょく「元気?こっちはいい天気」とLINEする親くらいおせっかいになります。
最後に。ライター業を通じて
ライターの僕は、個人的なミッションとして、
「かむかふ」姿勢を通じて、一人でも多くの人に世の中や他者への希望を持ってもらう
ことを掲げています。「かむかふ」はひとまず、「信じて向き合う」ことと思っていただければ大丈夫です。詳しくはあとで語ります。
僕は、今回お伝えしてきたようなことから、ライターとして発信するコンテンツはなるべく人を信じる希望を持てるものにしたいと考えています。
たとえば、こんな風に。読んでいただければ伝わるかと思います。
さて、「かむかふ」について。
かむかふは、数年前に文芸評論家の 小林秀雄 氏の『学生との対話』を読んで知った言葉(動詞)です。
小林秀雄氏曰く、「考える」の古い形が「かむかふ」で、さらに遡ると「身交ふ(むかふ)」となり、これが「考える」の語源だと言います。そこから、彼は「考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事」「今はまだ見えていないものを見、感じられていないものを感じるために、相手と全身でつきあうこと」と述べていました。
これはまさに、バイクの後部席でキュンキュンした自分の考えていたこと。
さらに、「むかふ」には、「迎える」のニュアンスもあり、向き合うものと一体化し、その人として物事を理解し、世界を見つめ直す意味も込もっています。ライターとしてそうありたいという姿勢そのものです。
こういうわけで、僕が意識してしていること、もっと極めたいと考えていることこそ「かむかふ」ことだと、しっくり来たのでした。
では、もう一度。
僕のミッションは、
「かむかふ」姿勢を通じて、一人でも多くの人に世の中や他者への希望を持ってもらうこと!
肝に銘じて、お仕事がんばります!
関連note
一緒に読むとより僕の考えが伝わりそうな記事です。
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