見出し画像

闘病、別室登校 –「対話と執筆」の原点にあるのは、信じて待つ人たちの姿だった

僕と同じ「パーソナルライター」を名乗っている方から突然連絡が来て、お話しすることに。その方とは、おくやま・ふみさん。

実際お話ししてみると、相手の人生を、その人の考えや信念を知りたいという情熱が伝わってくる方でした。小中学生時代の話をこんなに深掘りしていただいたのは、生まれて初めて。新鮮でした。

「パーソナルライター」という肩書きについては、たまたま同じネーミングに行き着いたとのこと。示し合わせていないのに被るってなんか嬉しいですよね。

さて、嬉しいことに、彼女が僕を取材し記事を書いてくれると言うのです。しかも2回にわたって。

その第一弾が今日のこの記事。内容は、僕の過去から現在編。いわばMaking 久高で、僕のnoteで前編を公開することに。

以下、おくやまさんの文章となっています。


今回は、私のパーソナルライターの大先輩、りょーやさんこと久高諒也さんのご紹介です。

ライターとして第一線でご活躍中のりょーやさんに、恐れ多くも体当たりインタビューに挑んだ駆け出しライターの奮闘ぶりが、この記事から読み取れたら大成功(・∀・)

パーソナルライターの先駆者として道を切り開いてきた彼の実力は、各界の最前線で働くビジネスパーソンから「文章のプロ」と称され、絶大な信頼と惜しみない賛辞を得ています。

21歳という若さで、どのようにしてその「ライター力」が培われてきたのか、見たい!聞きたい!!伝えたい!!!(多分古すぎて誰もわからないね・・・)

ということで、Making of 「パーソナルライター久高諒也」も根掘り葉掘り聞いちゃいつつ、私なりにりょーやさんとの「対話」を楽しんだ対談インタビュー(前編・後編)をお送りします。

では、まずは前編をお送りします!
目次はこちら!!

りょーやさんってどんな人?

久高諒也、沖縄県出身の 21 歳。
大学生として勉学に励む傍ら、パーソナルライティング事業を立ち上げ、2021 年度はクラウドファンディングにも挑戦。後輩たちの育成にも熱心なパーソナルライターである。
彼は経済的には決して裕福とは言えない、いわゆる「アンダークラス」と呼ばれる年収下位 10%の低所得世帯で育った。小学校で経験した 2 度の大手術と車椅子生活、両親の離婚、中学校での別室登校。
幼い頃からたくさんの人たちに助けられ、支えられてきた彼は、人一番、人に寄り添うことの大切さを知っている若者でもある。

:お聞きしたいことが沢山ありすぎて、時間内におさまるのかドキドキしております(笑)まずは、りょーやさんご自身のこと、教えてください。小学生の時に「ペルテス病」(大腿骨の骨の付け根に壊死が生じる病気)で大きな手術を受けられましたね。

:3-4 歳くらいから足の痛みがあり、通っていた家の近くの診療所からは
「成長痛」との診断を受けていました。そのうち、歩けないくらいに痛みが酷くなり、大きな病院で検査を受けることに。

病名の診断が下ってからほどなくして、1 回目の手術。同じ病棟の老若男女と十分に仲良くなる時間がもてるくらい長い入院生活でしたね。そして、術後のリハビリは本当に地獄でした...。

寝たきりの時間が長引くほど、ますます動き辛くなるので、リハビリで強引に足を動かすんです。ぎっくり腰の時に、無理矢理腰を動かされるのをイメージしていただけるとよいかと。激しい痛みを感じるたびに、泣き叫んでキレていましたね...。

:側で見ているお母さまも、とても辛かったでしょうね...。大変な手術を経て、退院後の生活はどんな風に変わったのでしょうか?

:小学1 年生の時は、母親が毎日、車椅子を押してくれて、学校に通って
いました。当時は車椅子であれば養護学校へ通うのが普通の時代。母親が
毎日学校に付き添ってくれたおかげで、普通の小学校に通うことができまし
た。

初めて運動会に参加したのは4-5 年生の時。それまでは体育の授業も出られないことが多く、その代わりと言ってはなんですが、教育熱心な母のおかげで勉強する時間はたくさんありました。普通の小学生だと、学習ノートって年間2-3 冊だと思うのですが、僕の場合は80冊くらいありました。

:80 冊!レベルが違います…。病気の経験から、何か感じたこと、りょーやさんの中での変化や気づいたことはありましたか?

:他の人よりも「自分一人で生きているわけではない」ということは重々思い知ったというか。術後は一人でトイレに行くことも、ベットから降りることもできない状態。誰かの手を借りて生きている、ということを、日々の生活の中でリアルに経験しました。歩けるようになった後も、程度こそ違えど、それは変わらないんだな、と感じています

そして、人間って弱っている人間に対して、とても優しくしてくれるんだなーと(笑)

母親は当時、3階の自宅まで僕を背負って上がり、再び降りて今度は車椅子を運ぶといった具合に往復してくれていました。同級生や周りの大人たちは、歩けなくて何もできない自分に「がんばりすぎなくていいんだよ」、「無理しないでね」といつもやさしい言葉をかけてくれました。

そんな状況に甘やかされて、よい気分もあった反面、申し訳ない気持ちが募っていったのも事実です。「何か自分にできることをやろう!」と突き動かされるような思いから、足を引きずりながら家の中を掃除して回ったりしました・・・。

:小学校1-2 年生という幼い時期に、そんな思いをされていたのです
か。自分の病気のことを呪ったり、他人から優しくされることを当然と思う
人も世の中にはいると思いますが、りょーやさんはそうではなかったのです
ね。

そんなりょーやさんに寄り添ってくれたお母さまはどんな方ですか?

:すごく強い人だな、と。振り返れば僕の入院や、不登校、弟の病気や交
通事故、父の借金のことなど、毎年色々と起こり、壮絶なことを乗り越えてきたと思うのですが、そういう苦労を感じさせない人でした。

小さい頃の母親のイメージはひたすら明るい人、無邪気で子供みたいなところがある人。子供より虫取りに夢中になり、虫かごをセミでパンパンにして「優勝!」と叫び大喜びしていたり。学校では、僕より友達を増やすのが上手でした。

:え?お母さんがりょーやさんのクラスメイトとお友達になっちゃうってこと?

り:そうです!2 回目の手術の時に、クラス全員から手紙をもらったのです
が、その中の8割の内容は、母について書いてあって。「りょーやのお母
さんと遊んで楽しかったです。ありがとうございました!りょーや、手術がんばってね!」
みたいな。僕は「ついで」か、っていう感じで(笑)

お:すごいお母さんだなぁ・・・。お会いしてみたいですね。(かなりまじめ)りょーやさんのご両親は、りょーやさんが小学生の時に離婚されていますよね。りょーやさんにとってお父さまはどんな方でしたか?

り:小学校6 年生で両親が離婚した時に、父親から「おまえなんか生まれて
くるはずじゃなかったんだよ!!」と言われたことが、自分の中ではずっと重くのしかかっていて。今起きている悪いことは全部自分の責任なのだ、と自分で自分を責める反面、どうしたらよいのかわからず苦しんでいました。

もしもその時、父親を嫌うことができていれば、僕は変わっていたかもしれません。でも、母親が当時、父の病気のことを懇切丁寧に説明してくれ、父親を育てた祖父母も、僕のことをたくさん愛してくれていたので、誰のことも悪いとは思えなかった。

だから自分の中では「じゃあ、仕方ないな」と納得せざるを得なかったんですよね。父親を憎んだことは一度もありませんが、消化できない自分の葛藤がモヤモヤとした苛立ちとなって、荒れていた時期もありました。

当時はカッとなると止まらない性格で、椅子を持ち出して「うわぁーっ!」となることも...。いつか自分は、人を殺してしまうのではないかという恐怖さえ感じていました。

それと、ずっと心の中にあったのは、将来、自分が愛した誰かを、最悪な形で傷つけてしまうのではないか、という恐怖。母親を傷つける父親を目の当たりにしてきたので、自分も同じようになるのではないかと。

ライターの原点「対話と執筆」

ご両親の離婚、そして父親から投げつけられた一言。中学校時代の彼は、行き場のない思いを抱え、自分を責め続け、そこから渦巻くイライラを母親や弟にぶつけていたという。
学校では「大人しくて勉強ができる子」というブランドを守り続ける一方で、家では毎日弟と激しい喧嘩をする日々が続いていた。その不安定な思いは、どのように変わっていったのだろうか。

り:中学で経験した2年間の別室登校の時代に、たくさんの本を読んだ
とでいろいろな人生を経験し、自分を客観視できたことが一つ大きかったと
思います。

そしてその2年間で、友達、友達のお母さん、親戚、学校の先生、カウンセラーなど、周りの友人や大人たちがやさしく自分に寄り添ってくれたことが、時間の経過と共に離婚の衝撃から自分を立ち直らせてくれたのだと思います。

どれだけ反抗的な態度をとろうが、自分の中に閉じこもろうが、そこにいつ
も一緒にいてくれた友人や大人の存在
に、本当に助けられました。

別室登校をしていた時には、毎日給食を運んでくれ、一緒にお昼を食べてくれた友人がいて。彼は僕にとってはすごく大事なことを教えてくれた、保護者みたいな存在なんです。

同じ幼稚園に通っていた同級生のお母さんの存在もありました。そのお母さんも子供の頃、いじめを受けて不登校になった経験があり、僕のことをご飯に連れて行ってくれたり、ドライブに連れてっていてくれて、海岸で話を聞いてくれたり。他にも叔母や心療内科の先生、僕の周りにいた大人達に、当時の辛かった自分の気持ちを話すことができたのは、とても大きかったですね。

・・・(ちょっと考えて)今、頭の中に浮かんだ言葉はまさに「対話と執筆」

周りの大人たちとの対話、特にカウンセラーとの対話が大きかったと思います。カウンセラーの勧めでつけていた日記は、感情を見つめる、ということを教えてくれました。

言語化できない「もやもや」に名前をつけ、文章に書くことができた時に、気分が落ち着くと気づいたんですね。そこから、自分の中の感情や思い込みを上手く扱うことができるようになっていったのだと思います。

お:りょーやさんの中では、その「もやもや」はどのように言語化されていくのでしょうか?

り:たまにいい文章が書けそうな「もやもや」があるんです。「この鬱屈とした感じ、同じように抱えている人がいそう!この苦しい感情をこのまま書きたい!」という感覚。

そういう時は、あえて自分の中で解決するための質問を投げかけず、その生生しい感情が消えないように、徹底的に「なぜ?」「なぜ?」と、自分の感情をひたすら掘り下げる。

やりすぎると苦しくなり、寝るのが辛くなることもありますが・・・。筋トレしすぎる人と一緒ですよね。「ランナーズハイ」ならぬ、「ライターズロウ」(笑)

お:ちょっとそれ、名言じゃないですか?一つ記事が書けそう!

感情と向き合い、それを文章として落とし込むことを学んだ中学時代のカウンセラーとのやりとりは、りょーやさんのライターの原点とも言える「対話と執筆」の最初の体験だったのかもしれない。「ライターズロウ」の記事、ぜひ読んでみたいですね!

本を読むということ

りょーやさんの note を愛読しているみなさんは既にご存知の通り、りょーやさんといえば、その人並外れた読書量。中学生の別室登校の時代から本格的に読み始めた多種多様なジャンルの本は半端ない量。そして、今まで読んできた本を通じて得た知識や考え方は、現在のパーソナルライティングの仕事にも生きているという。

り:少し前までは自分の読む本に何か一貫性があるのか、ずっと疑問に思っていました。結論として、僕にとって読書は「物の見方の自在性を高める」ために読む、ということが一番の軸にあると感じています。

あとはジャンルによって、それぞれ読むことの目的がはっきりしている部分もあって。例えば、自己啓発本であれば、パーソナルライティングに生かせるような「良い質問」を集めるために読んでいるようなところがあります。

小説や歴史本、漫画などは、単純に面白いから読んでいる反面、「良い仮定」を自分の中にインプットする目的もあると思っています。もしも自分が、この主人公と同じ状況になったらどうするか、という仮定は、その小説を読んでいるからこそ考えられる「仮定」なんです。

この仮定が、相手の話を聞く中でも、話題を掘り下げて、深める材料になるんです。あと、最近は同じ本を繰り返し読む、という読み方もするようになりました。

僕はそもそも、人の悩み相談に乗るのが好きなのですが、相談してくれる相手の悩みを解決できそうな内容に関係する本を、過去に読んだものから引っ張り出してきて再読することが増えました。そこから、その人の悩みを解決できる何か新しい視点をもたらすことができるのではないかと。

学業とパーソナルライターの仕事が忙しい今でも、平均して月6-8 冊は本を読むというりょーやさん。
読んだ内容はすぐ人に話したり、なんでも書き留める自分のノートに書き記すという。彼が書く記事には、今まで彼が読書を通じて蓄積した豊富な「知の引き出し」から取り出す、いろいろな要素が組み込まれているのだ。さて、前編はここまで。
後編ではりょーやさんの「人を動かす」マネジメント術やパーソナルライターとしての仕事の仕方に迫ります。後編は「パーソナルライタ おくやま・ふみ」の note でご覧下さい。


後編はこちら!


いいなと思ったら応援しよう!

久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
サポートいただいたお金は、僕自身を作家に育てるため(書籍の購入・新しいことを体験する事など)に使わせていただきます。より良い作品を生み出すことでお返しして参ります。