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母親がどうしたか、という目線で観る「DOGMAN」(ちょいとネタバレ)

 大好きリュック・ベッソン監督の「DOGMAN」を観た。タイトルではあらかじめその視点で「観る」みたいに書いたけど、結果そのようになった、と言った方が正解。「LEON以来30年ぶりの」というコピーも気になる。

 とりあえずフライヤーやポスターを見て、楽しく爽快な話ではないだろう、との予想はすれど、前情報を入れずに夫と映画館の席に座った。
 どちらかと言えば、夫の方がベッソンのファン。

 その昔、ロザンナ・アークエットが好きな夫(当時は彼氏)に連れられて、「グレイト・ブルー」(今ではフランス語の「グラン・ブルー」の方が有名だけれど、最初に封切られたのは英語版の「グレイト・ブルー」だった)を新宿の今は亡き広いプラザで観たのが初めて。
 それ以来、とても信頼している監督なので、事前にあらすじを追ったりする必要がなかったとも言える。


主人公のダニエルは、犬と意思疎通ができる。それは才能ではなくて、生きていくために身につけざるを得なかった技。

 結果。

 2人とも、終映後放心状態になってしまい、しばらく席を立てなかった。
 何がそうさせたかと言うと、やはり主人公ダニエルの壮絶な人生がずしんと来すぎて、たとえラストがストンと落ちていても、観た映像が去来して、
「めでたしめでたし」
 とは行かなかった、という思いが残るからだと思う。

 色々と犯罪を犯してしまったダニエルは、その常軌を逸した犯罪に対して精神科医の診断が必要だと警察が判断。呼び出された、女性の精神科医に語る彼の人生、ひどすぎてひどすぎて言葉もない。
 DVの父親は、その家の絶対君主。逆らうと容赦なく暴力を振られる。キリスト教から、「忠実」であることだけを学んだ愚かな兄は、何かにつけて弟のダニエルの行動を父に告げ口。
 その度に、殴られ痛い思いをするダニエルなのだった。


犬と暮らした少年時代が過ぎても、犬が大好きなダニエル。その絆は固い。とてつもなく悲しい恋物語も経験する。

 父親は、闘犬のあっせん業らしく庭には犬を入れておく大きな檻があるのだけれど、なんとダニエルはそこで暮らすように強いられてしまう。日に日に汚れていくダニエル。犬だけが唯一の友達と言う状況になる。

 なぜなら、お母さんはこのあたりで、子どもたちを置いて逃げてしまうから。
「この食べ物をお父さんに見つからないように、地面に埋めて隠しておきなさい」
 とか何とか言って、缶詰や乾きものを檻の中に投げ入れ去っていくお母さん。

 虐待サバイバーである私は、ここで怒り心頭。
「何やってんだよ。逃げるな! おまえが逃げることでこの子がどんな人生になるか考えろ! 唯一の味方に裏切られて人生めちゃくちゃになるんだぞ。おまえが殴られれば良いんだ、おまえが選んだ配偶者なんだから!」
 強い憤りが、私を支配した。このあたりで、どこかで自分と重ね合わせていたのかもしれない。
 味方がいないって・・・。
 ものすごく辛い。

 兄のやっていることも、ひどすぎるけれど、別の意味で被害者だと思う。父親に取り入ることで自分はターゲットにされないように仕向ける。悲しくあさはかな作戦。学校とかのいじめにもよく見られる現象。本当は、やりたくないのに、怖いから。
 さらに、キリストを信じているという大義名分のもと、若干の罪悪感もチャラにするのだろう。嬉々としてやっているような表情もするから、正しいことをやってやっている、という思いこみもあるのかもしれない。
 終始首のあたりで揺れている金色の十字架が空しい。


精神科医と心を通わせる。共通の「痛み」を持つ同士、最初から親密な雰囲気。

 兄は。
 ある日、ダニエルの檻に白い幕を持って来て掲げる。手描きで、
「IN THE NAME OF  GOD」
 と書いてある。
「神の名のもとに」
 と言う意味だけれど、それも自分の行動を正当化するための道具。幕は、檻の外から見るとそう読めるけど、中にいるダニエルにとっては反対から読んだ方がしっくりくる配列になっている。
 つまり。
「DOG  FO  EMAN」
 というように。
 ちょうど「FO  E」の位置に、太い柱があったので、その3文字が隠れてしまった。
 だからダニエルには、
「DOG MAN」
 と見えたのだ。
 ダニエルが、
「DOG MAN」
 になった瞬間。

 味方のいないダニエルは、次第に犬たちと深いコミュニケーションを取れるようになり、癒され愛していく。犬たちも、ダニエルの言葉を理解し、手となり足となり動いてくれる。
 だって。
 ダニエルは、思うようには動けないのだ。それは、ある日父親から銃で撃たれ、小指を失い脊髄が損傷したために車椅子生活になってしまった。
 それも、兄が告げ口をして激怒した父の仕業。
 ここでも、母親がかばってくれさえしたら、こんなことにはならなかったのに、とがっかりする私だった。
 どこまで辛い思いをすれば満足するのか。

 まぁ、このことがきっかけで父親と兄は服役することになる。そしてダニエルは檻から出ることができたけれど、今度は施設に入って生活しなければならなくなってしまう。もちろん、檻よりはどんなに恵まれた環境ではあるけれど。

 そのようなことを、精神科医に微に入り細に入り説明していく。その様子が回想シーンのように映像で表現されていき、時折り2人の会話に戻っていく、という進み方。
 精神科医が、
「どうして、私にこんなに詳しく話してくれるの?」
 と尋ねるシーンがある。
「それは、同じ痛みを持っているから」
 何の疑いもなく答えるダニエル。痛みは、「PAIN」という単語を使っていたけれど、確認もせずに断言するダニエルに驚く彼女。

 そうなのだ。
 彼女の父親もDV。さらに、離婚した夫もDV。父親からされたことを、今度こそ幸せになろうと思って結婚した相手にされる。
 それは、きっと相当の絶望を味わったに違いない。
 けれども、ダニエルの母親と決定的に違ったのは。
 彼女は、逃げなかった。
 幼い子どもをしっかりと守って、今も一緒に暮らしている。仕事の時は、お母さんに世話を任せるけれど、それができるのは、そのお母さんも逃げずに彼女を守ったからでしょ。

 もちろん経済的には苦しいこともあるだろう。だけど、仕事が終わって赤ちゃんを抱きしめる時の彼女の幸せそうな顔。未来ある子どもを本当にいつくしんでいる様子が伝わってくる。
 この子は、きっと幸せになるだろうな、と私までほっこりとする。

 自分の状況を言い当てられて少し戸惑う彼女だけれど、2人の間には言葉にできない連帯感も生まれてきていた。
 この精神科医に出会ったことで、ダニエルの人生が少しは救われていると良い。

 ラストシーンも悲しい。覚悟の歩み。立つと脊髄が漏れ出して、命にかかわるのだけれど、それでもダニエルは歩き出し、教会へと歩を進めていく。屋根の上の十字架を見上げながら、微笑む。
 その後は、どうなったのか余韻を残す終わり方だけれど、きっと召されたのだろうな、と思わせる。
 その笑顔が、もの悲しい。

 こういう内容だったのか。
 重い思いを抱きながら、エンドロールを眺める。その時点では、もう2人母親の違いについて深く考え始めていたけれど、夫も同じようにずしんと来ていたようで、
「いやぁ~、すごいものを見た」
 と言っていた。
 だけど、たぶん。私とは違う視点。
 夫は、虐待サバイバーではないから。それでも、そうとうに思うところがあったわけで。

 母親さえ逃げなければ・・・。
 ダニエルは、小指を失わず歩けなくなりもせず。ダニエルをかばうことで、自分の命が脅かされるかもしれないけれど、それは甘んじて受け入れるべき。もう一度言うけど、自分が選んだ夫なんだからさ。
 ここに一番怒りを感じる私。それは、弱い者に犠牲を強いて、都合の良いように自分を正当化する卑怯な奴に対する私の思いから。
 こんなふうにものすごい憤りを感じる私も、ある種歪んでいるのかもしれないけれど。
 娘が辛い思いをしていたら、それを取り除いであげなければいけないのに、
「だって、しょうがないじゃない!」
 とか、
「私だって忙しいのよ!!」
 とか、
「そんなこと考えるあんたの方がおかしい!」
 などと言って、私の辛い思いに一切寄り添ってくれなかった母を思いだしている。

 あ。
 考えると、ダニエルの母の方がましかも。
 だって。
「ごめんね、ごめんね」
 と謝りながら去っていくから。
 
 ダニエルの母は、逃げて幸せになったのだろうか。すべての原因は、この夫婦が出会って子どもまでもうけたことだけれど、やりなおせるキーパーソンは、母親だったのだからなんとかしてほしかった。精神科医の女性のように。

 そんなことを思い、これはリュック・ベッソンしか描けない世界だなと感じた。今までの作品のように、派手なアクションシーンもまぶしながら、人間の心の襞に切りこんで行く姿勢。ここで、どうして「LEON以来30年ぶりの」というコピーがついていた意図を知る。その後にも何作も撮っていたのに、なぜ? と思ったけれど、「LEON」と同じく人間の深い部分を描いていたからなんだね。ナタリー・ポートマン演じる少女も虐待されていたという設定だった。 
 納得。
 大好きな、今は亡き(もう改装されて違うものになっている)ニューヨークのチェルシーホテルが映る「LEON」をまた観たくなった。

 リュック・ベッソン監督の真髄を感じた、風が吹きすさんだ3月の夜・・・。




 




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