ミルク と 贖宥状
─夢を、みました。
それはそれは非情に素敵な。
呪いの始まりの夢でした。
それは、もしかしたら今の自分の身に降り注ぐ現実があまりにも酷いがために、脳が現実とのクッションとなって良い夢を見せ、心の安寧を持たらそうとして現実逃避を促したのかもしれないが。
それは、とある恋愛の夢だ。
ただ普通に女の子に出会って。
あ、この子いいな、素敵だな、って思って。
なんか仲良くしたいな、って思っていて。
こういう子にはちゃんとした人が側に付いていてほしいな。
幸せになってほしいな、と思いながら。
けれどあまりの居心地の良さに。
気が付けばついつい側にいて、面倒をみてた。
そんな夢。
けれど自分的には、ただ、それだけで良かった。
今までも自分には幸せを享受する資格なんて無い、と思いながら生きてきたので、ほんのりとした幸せのつまみ食いだけで、それだけで充分だった。
そんなこんなしてたら、向こうの子は何をするにも僕を探してくれていたみたいで。
なんか一緒にいると居心地がいい、って思ってくれていたみたいで。
それがお互いに態度に出ていて。
何かの舞台を夢中で見ていた時だ。
気が付いたら相手の手を握ってた。
そうしたら、相手も。
その手を握り返してくれていた。
僕は基本的に自分自身や他人、相対する相手にそんな多くを望まない性質なので、仮に異性と仲良くしていても、「その先」に対するビジョンをまるで持ち合わせていない。
謂わば、「そういった」ことが進展しないのだ。
なので色恋に対する意識は乏しく、そのお陰で誤解を生ませてしまったり、気付けないがために気付かない場所で傷付けてしまい、気付いた時には陰口やトラブルの温床になっていたことも屡々だった。
こんな感じだから余計に他人には期待も信頼も寄せず。
表面的なテンプレートや行動を期待し、押し付けてくる異性とも反りが合わず、で。
駆け引きや打算の存在しない、ただ相手の存在そのものと対峙する。
そんな幼く拙く、原始のような「当たり前」を。
自然体で行動してくれる人物は、僕にとって。
それはそれは物凄く貴重で。
ただこの夢中の手を握り返してくれたこと。
それだけで幸せだった、のだが。
ちゃんとした人が側に付いていてほしい、と心から願っていたのに。
いつの間にか、その子の隣には僕がいた。
そこから年月が過ぎ、また別の違う子と作業することとなる。
仲良くなる。
劇に夢中になり、彼女は思わず僕の手を握る…思わず手を握る人の辛さや悲しみ気持ちや思いを知っているから、僕も手を握り返していた。
けれどもう片方の手は、もう一人の彼女の手を握っていた。
そのまま目の前の劇を見続ける。
片方の手は今までの彼女。
もう片方の手はもう一人の彼女の手を握って。
そこには打算も何もない、ただそれぞれの相手を思う気持ちだけだった。
実際にこの夢は現実が反映されていて、実際にこのような状態になった。
ただ現実に起きたことは、現実の僕は。
見栄や虚勢、欲望や将来という聞こえの良い打算的なことと、降って湧いた愛されるに翻弄され、相手の意見も蔑ろにして自分が正しいと思う選択をした。
結果、全てを棒に振り、数年後には全てを失った。
僕の心に居心地を見出だしてくれていた人達全てを失った。
夢は現実のノイズのバリ全てを削られた、全てが美しい静謐の状態で進行し、そのまま時が止まり、揺蕩い、そして目が覚めた。
やはり全てが自分に都合の良い状態をキープしたまま目が覚めたので、現実のショックを和らげる機能を果しているのだろう。
または就寝前に自分の心を揺さぶられるような動画を掘ってしまい、それを美しい、と感じてしまった為、その感情の安定を心と身体が選択した結果、静謐で幸せだった頃の幸せだけを抽出したあの空間と間を創成したのかも知れない。
どんなに願っても叶う事の無いであろう、あの頃の夢のような時間を。
握り返してくれる力に安らぎを覚えてた、、あの時の喜びを。
理想的な恋をしてきた。
それは、とても。
とてもとても幸せなことだった。
失って改めてようやく気付くこと。
それは失って手元に遺されたカードの頼りなさに。
自分の幸せは、周囲の人が構築してくれていることに。
抜け殻を抱きながらあの日に届かない、声にならない遠吠えをするその様は、ようやく幸せの意味に気付いたようだ。
かつての温もりの残滓に大事を見出だすことしかできない、悲しいただの生き物と成り果ててしまったようだ。
ただ、この残り香が消えぬ間に、この言葉にならない思いを連ねておこうと思った。
そこで交わった子達の優しさや思いに後れ馳せながらも気付けたその経験が、今現在の自身を構築しているからだ。
その生き方に変えて、改めて身に沁みて解ることもある。
献身的な思いや優しさを持ち続けることの難しさやそれを利己的に踏みにじられることへの無力感等もそこで学んだ。
愛でる対象が無いので万人に与えるしかない。
結果、心には目に見えない致命傷が無数に付けられることとなり、元から我が儘かつ利己的で優しさの鍛練を積まなかった僕は幾度となく心がブッ壊されることとなり、そしてとうとう、完膚なきところまで破壊し尽くされてしまった。
そんな僕が伝える汝の隣人を大事にしてくださいという願いなので、ほんと大事にしてください。
お金欲しいです。
淫らなこといっぱいしたいです。
他人よりも裕福な暮らしがしたいです。
自堕落に遊んで、苦労なんてしたくないです。
けれど、自分の握った手を握り返してくれるのならば。
共に居続け、歩んでくれるのならば。
それだけで充分です。
他に何もいらないです。
だってそれには残滓だけで生きられるぐらいの強力な呪いの力があるから。
言い換えれば、それは生きるための原動力となるものが備わっているから。
世間が剥き出しの欲望が赤裸々に語られる環境になってから、一体どれぐらい経つのだろう。
どうやら生きることや行動/選択に対してもあからさまに欲に関する思考が付随してきていて、その生々しさや追随する浅ましい思考は端から見ていても身が竦む。
個人の勝手と言えばそれまでだが、個人の勝手ならば個人的に納めていただいて世に放たないでいただきたいと、願う。
欲とは秘めるものであって、噴出してしまう時点でその人の格が知れるもの、と今まで生きてきて学んでこられなかったのだろうか。
周囲に流されて、周囲がやっているから、とか。
周りに責は無く、単なるお里の知られる言い訳に過ぎない言動だということに本人自身でいつ気付けるのだろうか。
そんな堂々巡りの修羅の道。
地獄のような見えない痛みに身を窶す生き方を続けて。
欲に塗れて。
塗れて。
塗れて。
何時しかその塗れた両手で、大事な人の頰に手を伸ばせるのだろうか。
その大事な人諸共、欲に塗れさせてしまうのだろうか。
そんなどうしようも無いことを思う、どうしようも無い僕は。
夕暮れを待ちながら。
掛け違えた釦に気付けないまま。
青白い月に堪えながら。
明日の朝日を、じっと待つのだろう。
気付かない振りが、ばれない様に。
囚われた呪いが、消えない様に。
大切に胸に秘めた呪いを、大事に暖めていくのだろう。