見出し画像

エビデンスは大切だが、「自分の知見」を持つ姿勢も大切

本記事は少し偏屈な内容であることを、ご了承いただきたい。

■ エビデンスと科学的介護

さて、「エビデンス」という言葉をご存知の方は多いと思う。

エビデンスとは、科学的根拠・科学的裏付けのことだ。

臨床の分野で使われる言葉であったのが、いつ頃からだろうか、メディアでも使われるようになり、サプリの広告などでもお目にかかるようになった。

エビデンスがあったほうが、対象物に対しての信頼性が高まる。

エビデンスに付随して「統計」や「調査結果」といった言葉も使われていると、「よく分からないけれど、何だかスゴイのだな」と思えてくる。

介護の分野においても、エビデンスという言葉が使われている。

それは国の指針として「科学的介護」として推進されており、その取り組みに参画することで介護報酬も上乗せされる制度(LIFE 等)もある。

科学的介護においてエビデンスは大切な要素だ。
エビデンスの蓄積と活用及び検証こそが、科学的介護に厚みをもたらす。

オンラインの活用やデータベース化は至極当然のこととなっている現代、個々の介護サービス事業所の支援内容や事例を1つに集めて検証し、それをネットワークを介して共有できれば、介護の質・幅は大きく広がるだろう。



■ 個人の意見もエビデンスになってしまう。

・・・しかし、それを活用する「人」はどうだろう?
ここで言う「人」とは、専門職としての「介護者」のことである。

科学的介護の影響か分からないが、最近、介護者の中でもエビデンスという言葉を使う人をちらほら見かける。そして、エビデンスという言葉を誤用していることがある。

例えば、かかりつけ医や看護師の発言をエビデンスと言ったり、介護雑誌に掲載されている情報をエビデンスと捉えている人もいる。

細かく言えば、確かにこれらもエビデンスである。しかし、エビデンスには段階・信頼度があることを理解されたほうが良い。

「エビデンス 種類」「エビデンス 段階」などと検索すると分かりやすいイメージ図が出てくると思うが、エビデンスの信頼度は次のようになる。
(分類や順番は色々とあるので、ここでは本当にざっくりな紹介となる)

  1.  メタ分析

  2.   介入研究

  3.    コホート研究

  4.     症例報告

  5.      専門家の意見

一番上が信頼度が強く、下に向かうほどに信頼度は弱くなる。

だからと言って、一番下の専門家の意見がダメというわけではないし、一番上のメタ分析が正しいという話でもない。あくまで信頼性だけの話だ。

ポイントは、一番ランクが下の専門家の意見という、個人の意見もエビデンスとなってしまうことだ。

果たして、個人の意見をエビデンスとして、それを元に何かしらの方針を決める要素にするのはいかがなものか?

情報の確実性も曖昧なまま、それをエビデンスと言うのは、私は言葉の誤用であると思うのだ。



■ エビデンスは自分の意見ではない

個人の意見をエビデンスとすることも疑問であるが、それ以上に問題に思うことがある。

それは・・・
エビデンスがあることで、自分の頭で考えようとしないことだ。

当たり前だが、エビデンスは他人の意見であり、自分以外の大勢が汗水たらして苦心の末につかみ取った成果である。

それを差し置いて「このようなエビデンスがあります!」と、さも自分が頑張って立証したような振る舞いをするのは、ちょっと違うと思う。

エビデンスはあくまで証明の1つであり、他人が頑張った結果だ。
活用するにしても敬意を払って用いるべきだ。

三角形の面積の求め方や微分積分といった公式だって、漫然と問題の答えを出すために使うのではなく、なるべく敬意を払って用いるべきだ。

また、上記でエビデンスとして専門家の意見を揶揄するようなことを書いたが、別に馬鹿にしているわけではない。
専門家だって自分の意見にプライドと責任をもって発言をしているはずだ。これだって敬意を表したい。

何を言いたいのかと言うと、エビデンスを用いるときは、さも自分の意見の1部かのように使うべきではない、と言いたいのだ。

だからこそ、論文はもちろん、ブログであっても他者の意見を用いるときは「引用」や「出典」という情報源を記載することがルールとなっている。



■ 「自分なりの知見」をもとう

とは言いつつも、何もエビデンスを用いることを否定してはいけない。

エビデンスがあるからこそ、1つ1つの事象が紡がれていく。

エビデンスの蓄積が新たな扉を開き、そして課題が見つかり、仮設を定義して検証や研究が行われる。

ここで大切なことは「自分なりの知見」を得ようとする姿勢である。

エビデンスも含めて、自分が証明したい対象に対して「どう考えてればいいのか」「違う見方はできないか」「同じ思考にこだわっていないか」と検証することだ。

それにより、目の前のエビデンスの不確実性を減らす、あるいは確実性を高めることができる。もしかしたら、エビデンスを超えた理論を提唱できるかもしれない。

それは他人が証明したエビデンスを振り回している人には、決してできないことだ。

■ 最後に

もしも、何かしたらのエビデンスを活用する場面があったとき、そのエビデンスだけで物事を分かったきにならないで欲しい。

信頼性の高いエビデンスであったとしても、まずは「自分なりの知見」を得ようとする姿勢を持ち、最低限として「自分はこう考えている」という自分自身が責任をもてる意見も持つことが大切だ。

・・・何だか偏屈で説教臭い話になったが、エビデンスに対しての世間の捉え方に思うことがあったのでまとめた次第である。

ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?