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「やりたいこと」ドリブンのコーチが、「ありかた」ドリブンのメソッドをつくるまで

はじめに(前回のおさらい)

ランニングホームラン株式会社 CCO (Chief Concept Officer)のさわくんです!!
けんすうさん著『物語思考』とめっちゃ似た思想で法人向けのコンセプトメイクをする会社で、そのメソッドを開発している人です。

前回のnoteでは「そもそもけんすうさん広告に出稿した背景」「物語思考と弊社のコンセプトメイクメソッドとの共通点」について紹介しておりました。

今回は、前回の内容を踏まえて「そもそもなぜ今、物語思考的な思想や実践が求められているのか」さわくん自身の経験談を語りつつ、それを様々な学術で紐解くことで説明していこうと思います。

結論から言うと、

・人は「やりたいこと(DO)」をベースに生きるように元々なってない
・なのに無理やり「やりたいこと(DO)」を建てようとすると必ずどこかで破綻する
・自分の人生を自分でなんとかしようとせず他人事のように捉えると結果的に「やりたいこと(DO)」ができるようになる
・他人事のように捉えるときに「ありかた(BE)」をキャラとして設定するとやりやすくなる

という話をしていきます。

めちゃめちゃ弊社についてわかりやすく紹介くださりほんと脱帽でした😇


さわくんが「やりたいこと(DO)」を支援するのをやめたわけ

今では「在り方(BE)」から人生や企業を整えていくの大事だよねと発言する側ですが、数年前まではその真逆「やりたいことやろう!」と言って回る側でした。

当時大学生のさわくんはキャリア教育やキャリアコーチングにお熱で、何千人の「やりたいことがない」という悩みをメンタリングして回っていましたし、そういう人たちを集めたイベントも何百回とやっていたわけです。

なんでお熱だったかはこちらのnoteの序盤で書いております。

当時の自分的には「やりたいことを見出せることこそ幸せでしょ」と1mmも疑いを持たずにずっと取り組んでいたのですがある時、

「あれ?これ誰も幸せにしてなくないか?」

と思い至ることになります。
というのもそうしたキラキラした取り組みの周縁で、

「やりたいことがどうしても見つからずに苦しいです。」
「むしろ自分らしさが何かわからなくなりました。」
「無理やり頑張ろうとすることに、なんだか疲れました。」

などの声がよーく耳をすませるとむしろ多い現実に気づいたからです。「やりたいことをやっている」キラキラした空間、そしてそのキラキラを演出していたのは「やりたいことをやっている自分でいなければ」という同調圧力によるものでしかなかったのです。全員が決して「やりたいことをやっている」ことなんてなく、ただそれができない人が自然とフェードアウトしているのでした。何ならその中心でさえも「やりたいことをやってる風」の立ち振る舞いをすることで得られる賞賛・名誉などを獲得するツールになってしまっており、結論「誰もやりたいことなんてやってない」とさえ言えるほどの事態が起こっていたのです。

「やりたいこと(DO)」のオルタナティブを探す旅へ

そんな事実に気づいたさわくんは、考え始めます。「やりたいこと(DO)に変わる生き方とは何だろうか。」「そもそもやりたいこと(DO)の問題点は何か。」ということについてです。様々な実践に赴き、書籍や論文を読み漁った結果浮かび上がったのは下記の2点でした。

「やりたいこと(DO)」は自分の意志から生じない

ここではそもそも「やりたいこと(DO)」は自分オンリーでは思い描いて決めることは無理と言う話をしていきます。

僕たちは「意志」というものを前提に生きています。なので将来や業務などにおいても目標を建てますし、会社もMVVなどの目的をもとに活動内容を設計していきます。が、根本をたどるとこの「意志」は存在しないという考え方が妥当かもしれないという結論に辿り着きます。

そもそもこの意志という概念は、「中動態」という文法の消失から生じたとされています。

「中動態」とは、能動と受動という文法を習ったのなら絶対に知っている概念の2つに加え、もう一つ古来存在していた文法のあり方です。

僕たちは基本的に、<する/される>という文法の中に生きています。
人を殴ったのなら、殴った人は「あの人は人を殴った」という能動で表されるし、逆に殴られた側は「あの人は殴られた」という受動で表されるわけです。
あらゆる行為はこのように誰かが「する」側で誰かが「される」側に回る構造になっています。

しかし、例えば「恋に落ちる」という概念であればどうでしょう。
仮にAさんが恋”した”側で、Bさんが恋”させた”側だとします。
Aさんが「恋に落ちた」として、でもそれは誰かに自分からわざと主体的に「恋に落ちる」ことはできません。もし、「いや、私は意志を持って主体的に恋に落ちたのだ」という人がいたのならばそれはきっと恋ではないので出直してきた方がいいでしょう。
そして逆に恋に”落とした”側であるBさんを「BさんはAさんを恋に”落とさせた”」とするのも難しいと思われます。そうなると存在しているだけで誰かに影響を主体的に「与えている」ということになるからです。これを成立させるとよくストーカーが「あいつが誘惑したんだ」と主張する原理を認めなくてはいけなくなってしまいます。(Bさんがあの手この手でAさんを籠絡しようとしていた場合は、”落とさせている”が成立しうるかもしれませんが)

このように、「恋に落ちる」という現象において<する(能動)/される(受動)>の関係性は成立しません。

では、どう説明しうるのでしょうか。
ここで出てくるのが、「中動態」です。
中動態では<する/される>の代わりに行為の影響範囲が<外側/内側>のどちらにあるかを問う文法となっている。

先ほどの例で言うと、
あの手この手で恋に落とさせようとする場合は「能動」であり、一目惚れなど自然発生的に”そうなってしまった”ものが「中動」となります。

実際に自ら相手に対して何かを及ぼそうとしているか、自分の中で勝手に湧き起こっているか。この2つで区切っているわけです。

そうしてくると、中動態においては誰に「その行為の責任」があるかは不明瞭になりますし、そして今まで「能動」と思っていた行為も実は中動態で捉えた方がいいものがかなり出てくることになります。

例えばこの中動態を再発見し提唱した国分さんはこのように述べます。

「意志というのは『信仰』なんです。ぼくらの現代文明は意志に対する信仰で成立している。実際、意志という概念を発明したのはキリスト教哲学でした。それをはっきり指摘したのはハンナ・アレントという哲学者なんですが、キリスト教以前の古代ギリシャには意志の概念がない。意志って当たり前だと思っていますが当たり前の存在ではないんです。アレントによれば意志はパウロ(編注:1世紀のキリスト教の使徒・聖人。ユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したが、のち、半生をキリスト教の伝道にささげた)がつくったもの。パウロは人間の弱いところをよく知っていた。『やらなきゃいけないが、できない』ということがパウロにとっては問題でした。これを引き受けたのがキリスト教哲学最大の哲学者・アウグスティヌスです。アウグスティヌスは意志にとって『欲し、かつ、欲しない』ことが同時に起こると語っている。まさしくこれも人間の弱さに対する視線ですが、やはりこうしたある種の矛盾を抱えた概念にぼくらの文明は頼らざるをえなかった。でもそれで本当にいいのかということです」

國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを更新する理由(國分功一郎)

このように、意志≒「やりたいこと(DO)」的な発想は後天的に「やってもらわなければ困る」ことをやってもらえるように発明された概念で、人間にとって自然な思考パターンでは実はなかったりするのです。

ちなみに最近発売され話題になっているルーク・バージス著『欲望の見つけ方:お金・恋愛・キャリア』においても、人間の欲望のほとんどは内在するものではない。
「模倣」によって生まれるものだと主張されています。すなわち、「人は他人が欲しがるものを欲しがる」ということです。

テレビCMなどで流れていた服がさほど欲しくなかったにもかかわらず、好きなインフルエンサーが身につけていたら「欲しい」となったりすることが典型だと思われます。

このように、そもそも人の意志は外的な要因との相互作用よって創造されるもので、ゼロベースで自分で勝手に考えて自分で表明して行動に移していくという現代の「やりたいこと(DO)」モデルは幻想でしかなかったりするわけです。

「やりたいこと(DO)」は柔軟性がない

上記のところで述べたとおり、「やりたいこと(DO)」すなわち意志は外的な環境との相互作用で生じるもので、自分の中から完全に生み出されることはないというのが前提となります。その上でそれでも「やりたいこと(DO)」をベースに考えるとどうなるかといえば、「柔軟性」がなくなることが問題として生じると言えるでしょう。

どういうことか、要は「環境が変われば、やりたいこと=意志も変わるにもかかわらず、やりたいことをベースに据えて日々の行動をセットすると気分で変えられなくなる」ということが問題なわけです。

僕自身も「このアイデアすげえ!やりたい!」と前日に思ってても翌日になってみると「これ別にやりたくないかもしれない。」となることがザラにあります。

これが自分だけで完結できるものであれば、すぐやめて新しい「やりたいこと」を考えれば良いですが(それでも、またゼロから考え直すので効率が悪いのです。)、「やる」と決断した結果やめられないものもこの世の中には沢山あります。

例えば精神科医の斎藤環さんは下記のように述べています。

「欲望形成支援」という言葉を聞いて臨床の人たちがハッとした理由は、「意思決定しろ」って言われてできる人はほとんどいないからです。少なくとも初診段階で、「あなた何したいの?」って聞かれて答えられる人ほとんどいないという事実がある。大事なことはその手前だと。意思決定するためには、欲望をまずつくらなければならないと。

 もっと言えば精神医療の現場では、ニーズというのはどんどん変わるんです。これが手術だったら、「この腫瘍を取ってください」で、最初からニーズは最後まで一緒ですよね。しかしたとえば、ひきこもりだったら、最初のニーズは「働きたい」じゃないんですよ。最初のニーズは「俺に構うな」だったりする。治療を受け容れてからのニーズは「家族関係をよくしたい」、家族関係がよくなってきたら、今度は「家族以外の仲間が欲しい」とかね。マズローの五段階説みたいに、段階的に変わってくるんです。

 この変わりゆくニーズに合わせるのが医療の仕事なんですけども、内科モデルで考えるなら、最初に言ったニーズがすべてなんです。「あなた、このニーズで契約したでしょ」「だったら最後までこういう契約でいきますよ」という発想になりやすい。だから、最初のニーズにこだわってしまうと、その後のニーズはとらえきれないということになる。精神医療では「ニーズは変わるもの」というのが前提ですし、そもそもニーズがない状態からニーズを育むところまでが医療の仕事でもあるということを考える必要がある。そういうところにすごく響いたと思うんですよね。

中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援 第4回 質疑応答――会場のみなさんと(斎藤 環)

要は「やりたいこと(DO)」は変化していくものであり、何より自分のレベルが上がっていくことで進化していくものなのです。しかし、 「やりたいこと(DO)」を決断するとその進化を許容できず、あまつさえ「やると言ったからやるでしょ?」という外部圧によって取り返しのつかないことになることもあります。

行動を固定することは、そのまま突破できればいいですが変化が生じる時に非常に弱いモデルなのです。

まとめ:なぜ「やりたいこと(DO)」が見つからない/できない/辛いのか

ここまでの話でわかった通り、そもそも「やりたいこと(DO)」は環境との相互作用で生じるものなため自分で考えようとして出るものではないこと。加えて、「やりたいこと(DO)」は可変的で進化するものであるにもかかわらず、それを固定してしまうことで柔軟性がなくなり、掲げた「やりたいこと(DO)」ができなかった時、そもそも後から「やりたくなくなった」時にしんどくなってしまうという構造を紐解いていきました。

こうした矛盾が「やりたいことやろうよ」「決めたからには成し遂げようよ」というコミュニケーションを中心とするコミュニティで、

「やりたいことがどうしても見つからずに苦しいです。」
「むしろ自分らしさが何かわからなくなりました。」
「無理やり頑張ろうとすることに、なんだか疲れました。」

という声が生じる理由だということをさわくんは見つけていったわけです。

旅の終着点:「ありかた(BE)」に答えを見つけるまで

当事者研究との出会い

問題はわかったとて、では「やらない(DO NOT)」で人が幸せになれるかというとそうでもなさそうでした。当然、この「やる」に取り憑かれてしまった人に一回ストップをかけるという意味では有効ですが、ずっと「やらない(DO NOT)」をしていても一定成功してお金や時間に余裕があればそれでも大丈夫ですが、多くの人はそうではありません。なので、「やる(DO)」でもなく、「やらない(DO NOT)」でもない第三の方法を探る必要がありました。

そこで出会ったのが、当事者研究という取り組みでした。

こちらはNewsPicksで取り上げられた際の動画ですが、冒頭を聞いてみると「幻聴?幻覚?」とあまり日常では耳にしない話が出てくるかと思われます。きっとそれはその通りで、この当事者研究という概念は幻覚や幻聴が常に聞こえる「統合失調症」という症状を抱える方から始まった取り組みになってます。普通に生きてると「幻覚・幻聴」が聞こえるというのは「ヤバイやつ」になるでしょう。故に、いかにこの「幻覚・幻聴」を消して健常に戻すかというのがこの病気のスタンダードな治療法でした。ただ、ある時にあえて「幻覚・幻聴」を「キャラ」として外在化、すなわち他人として捉え直すことを始めたのです。つまり、その幻覚・幻聴を1個体として「あるもの」であると捉えることをしたわけです。するとこれまで「消そう」とするとよりひどくなっていた症状がむしろなくなっていく。そんな研究結果が次々に明らかになりクローズアップされていきました。

今ではそんな「統合失調症」の方だけではなく、生きづらさを感じる全ての人にも普及し、先進的なところでは「一般企業」でも研修に取り入れられるまで発展するムーブメントとなっています。

この当事者研究の取り組みは大別すると「ナラティブアプローチ」という心理学の流派の一つであり、世界的に研究され着目されているメソッドです。

ではこれが「やりたいこと(DO)」の矛盾点にどうして繋がるのか、その答えを探るにあたって下記の引用文をご覧ください。

「外在化」という言葉があります。責任を属人化しないという発想は、実はナラティヴセラピーの手法なんですね。ナラティヴセラピーというのは、その人が病んでいるのは、その人を病ませるようなドミナントな(支配的な)ストーリーのもとにあるからで、そのドミナント・ストーリーをもっとましなオルタナティブ・ストーリーに置き換えると病気が治っていくという発想に基づいています。ここで重要なことは、オルタナティブ・ストーリーが真実である必要がないことです。正論とか真理とかは、治療上はそんなに有効なものじゃないんですね。
 
 マイケル・ホワイトが紹介している有名な症例があります――遺糞(いふん)症といって、ウンコをそこらじゅうにしてしまう子どもがいた。その子がウンコするたびに、罰したり叱ったりしても全然治らなかった。だけどホワイトは、そのウンコする行為に対して「スニーキー・プー(ずるがしこいプー)」という名前を与えてキャラ化するわけです。「またプー来たねぇ」みたいな。「どうすればそのプーが来なくなるか、みんなで考えましょう」というふうに置き換えていくと、原因や責任から自由になった子どもの遺糞症が治るという実例が報告されています。
 
 こんなふうに、病気は責任を追求すれば治るというものではなくて、むしろ責任をいったん解除してあげたほうが、治りたいという自然な欲望をもつことができるし、それに対して積極的に取り組むこともできるようになる。「お前のせいだからなんとかしろ!」と言われてるうちは、「治したい」という欲望形成ができないんですよ。これがすごく大事なところです。

中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援 第2回オープンダイアローグの衝撃 (斎藤環)

普通何か問題を起こすと「あなたがあなたの意志でやったことなので、あなたに責任があるのでなおしてね」と要求するものでしょう。ただ、それをあえて責任を免責した上で「他人が起こしたもの」として観察、検証する実験的な態度をとることでむしろ勝手に治っていく。そんなことが可能だったのです。

結論:「ありかた(BE)」ドリブンの有効性

こちらの話は主に治療、すなわちマイナスをゼロにしようとする話が主軸でした。

ではこれをゼロからプラスの話で考えてみるとどうでしょう。これまでの「やりたいこと(DO)」をモデルに据えた時とは真逆の形で、しかし結果的に「やりたいこと(DO)」がやりたいことを考えないことによってできるようになるという非常にヘンテコな、でも妥当な結論が見出せることになります。

すなわち、多くの場合「やりたいこと(DO)」を軸に考えると自分で意志を持つことに困難を覚え、かつ本来変動する「やりたいこと(DO)」の欲望を無理やり固定し、それをやり切る責任を負ってしまうことが困難を生じさせる理由でした。

しかし、これを「ありかた(BE)」を外在的にキャラとして他人事として捉え、キャラの置かれた状況での立ち振る舞い(欲望)に従って行動をすること。この自分のことなのに他人事として捉えるということが、「やりたいこと(DO)」を環境との相互作用から汲み取り、責任の重さを感じずに変化と進化を許容しながら自分の人生を進めていくことができる鍵だったわけです。

これが、「やりたいこと(DO)」からパラダイムシフトが起こっていく理由であり、キャラ=「ありかた(BE)」ドリブンのブランディングメソッドを僕が作った理由です。

ちなみに、けんすうさんがこの話を「キャラ思考」と述べずに「物語思考」と名付けているところが非常にミソで、というのも、

ナラティヴセラピーというのは、その人が病んでいるのは、その人を病ませるようなドミナントな(支配的な)ストーリーのもとにあるからで、そのドミナント・ストーリーをもっとましなオルタナティブ・ストーリーに置き換えると病気が治っていくという発想

中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援 第2回オープンダイアローグの衝撃 (斎藤環)

が主軸にあるからです。キャラは自分をがんじがらめにしている物語を書き換えていく上での重要なキーアイテムのようなもので、最も根底にあるのはこの「物語の書き換え」にあるのです。

ちなみに、「個人ではわかるけど、企業もなぜこのキャラ思考が必要なの?」に端的に答えると、「法人も文字通り人格から成り立っているから」というのが理由になります。

個人と同じように、法人も価値観や性格があり行動する1個体として捉えてみると、企業がある段階で、「やりたいこと(MVV・パーパスetc.)がわからなくなる」「やりたいこと(MVV・パーパスetc.)を掲げているけど社員のモチベーションがない」「やりたいこと(MVV・パーパスetc.)を掲げた結果、組織がむしろ崩れていく」ことの原因が全て上の理論で説明できるようになります。

法人も同じように、意志(MVV・パーパスetc.)は環境との相互作用で生じ、しかもそれは変化並びに進化をしていきます。それを無理くり固定しその方向にドライビングさせようとするとどこかで必ず無理が生じるものなのです。かつ、個人と違い、法人は個人の集合体によって構成されます。一度建てて行動を決めた時にストップをかけるのは個人よりも圧倒的に至難の業です。故に、歯止めが効かなくなってそれが業績の悪化や、組織の崩壊に繋がっていきます。

これを未然に防ぐ、あるいは発生した諸トラブルを解決するにあたっては「ありかた=キャラ(BE)」を他人事のようにあえて法人も生成し、その法人の抱えるトラブルを社員のみんなで客観的に観察、検証する実験的取り組みが発生する文化状況に置くことが、自然治癒・自然成長を促すにおいて非常に大切なわけです。

以上でこの「やりたいこと(DO)」ドリブンから「ありかた(BE)」ドリブンにさわくんが変化する旅路を終えたいと思います。
ここまで約1万字、長文にお付き合いいただき本当にありがとうございました。この文章が誰かにとっての「ありかた(BE)」を考え見つける契機になれば幸いです。


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