高山羽根子『首里の馬』「新潮」2020年3月号
この小説は果たして主人公の未名子について、徹底的にエゴイストであることを描いくことが目的なのだろうかと一読して思ってしまった。
美名子は自分は誰にも迷惑をかけずに好きなことをしているだけなのに、そのことを悪く言う人がいるのは許せないという思いがある。しかし未名子も他人の振る舞いに対して、いちいち腹をたてていることがあったりする。だから自分のことを悪く言う人は許さないが、自分は人のことを批判してもいい、というふうに描かれているので、結果未名子は自覚のないエゴイストのように描かれている。
とくに資料館の周りに住んでいる人の「倫理」について批判している。資料館の存在を迷惑がられて、それが気に入らないとか許せないとかのレベルでなくて「倫理」的におかしいとなると、相当のレベルの仕打ちがあるはずだが、それ相当の描写がないから、未名子がひどく思い後んでいる印象をもってしまう。
それでいてこの資料館の持ち主がなくなって、資料館が取り壊されている様子を宮古馬にのって、ウェラブルグラスで撮影する場面があるが、それはこの持ち主が長い時間かけて集めた史資料の破壊には傍観し、自分の手で作業することで繋がっているデジタルスキャンした情報について愛着を感じている、ということを描いているのだろうか?リアルの資料が取り壊され破棄されても「自分の手元にあるものは全世界の知のほんの一部かもしれないけれど、消すことなく残すというのが自分の使命だと、未名子はたぶん、信念のように考えている」という未名子の考え方に、不健全な感情を抱いてしまう。
また、いきなりカミングアウト的な登場人物たちの生い立ちについて一方的に語る場面にそれなりの枚数が割かれている。この場面は小説内の時間軸で、相当の時間を要することになるはず。これが成立する前提について、じつはオンラインでのやり取りにおいては、カンベ主任から特別な時間制限がないと言われているが、つまり裏を返せば暗黙の時間制限があると思われるところで、未名子が最後の通信だからということで、独断で通信時間をかなり長くとったことになってしまっている。このあたりを読んでいたときが読んでいるときには、さすがに時間感覚がおかしすぎないだろうかと思った。
もうひとつは、未名子が動物に詳しくないと言いつつも、庭でうずくまっている正体不明の馬を、家まで引き入れ、一晩同じ部屋で過ごすところや、乗りこなしてしますところも詳細な記述がなく、未名子の自己認識と行動がかなりずれている印象を持った。
ところでこの小説は未名子の心のつぶやきが地の文になっているが、上記の事が多いので、未名子の思っていることと、行っていることを、分けて考えてみることにした。そうするとじつは未名子が自分自身について嘘をついているのではないかと思うようになった。
このアイディアが出てきてから、未名子は実はかなりおしゃべりなのに、自己評価ではおとなしいとか、機械に詳しいのに詳しくないとか、検索に慣れているのに、慣れてないとか、一見謙遜に見えるワードが出たあとで、それを否定する行動が実現することが、かなりの頻度で出てきたことを思い出し、じつはこの小説全体で、未名子が自分自身の心のなかで、本当の気持ちを抑圧していて、所々で本音が出てしまった、思ってしまったりしたりするが、それは自分で意外な行動と自己評価していることを描いているのだろうかと思った。
この考えに至ったときになってはじめて、未名子の気持ちにやっとたどり着けた感じがした。一番のラストでコーヒーを啜りながら笑ったのも、未名子がまた抑圧を仕掛けたというふうに理解した。そしてこれが未名子のある意味弱さとか不幸なところであって、でもその弱さを不器用な仕方でやりくりしながら、生きている人の姿が浮かび上がり、この考えることで、やっと未名子という存在を受けれることができた。
この結論が作者の意図とぜんぜん違う可能性は大きいけれども、自分はこの小説からポジティブな面を引き出せたのはとても大きいと思った。未名子については本当に読んでいてムカムカして、途中読むのをなんどかやめようと思った。ただ自分の経験上、嫌いだと思っている人は、確実に自分の心を揺さぶっていることの証拠なので、多くの確率で、評価がひっくり返ることがたくさんあったので、そのことを思いながら最後まで読んでみた。小説を読み進めながら、自分自身の態度を疑ってみる事ができたのも素晴らし体験になった。
もしかしたらこうしたところが未名子に似ているのかもしれない。
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