分かりにくい文章の暴力性?(フィールドノーツ2025Feb11)

Cへのコマンドを、「このライティングはどうですか?」に暫くしているんだけれど、今回はお節介を焼きすぎてたので、やめて、と頼んでみたら、以下のようになりました。

もともと、「分析的に評価し、その結果について解説をしてください」のような、具体的なようでオープンな問いにしていたんだけへど、完全にオープンにしてしまうと、余計なことしかしない、らしい。

なお、ジュディスの使い方がありきたりで、雑。それから、私のパフォーマンスは、バーレスクなんである。なまの身体をさらす、のであるから、より実験的なんである。

さらに、その下に、具体的なコマンドによるCのライティングを載せました。

アタシは、パフォーマンスアートとしてのバーレスクのパフォーマーであるのに加えて、ゴフマニアンのフィールドワーカーとしてプロフェッショナルなんである。

パフォーマンスではなく、パフォーマティビティだと主張したバトラーに対して、パフォーマンスとはいかにそれ自体、そもそもパフォーマティブであり、日常と地続きであり、それゆえに比喩でもありえるのか、について実地で体を張り、バトラーの例示したドラァグとしてバーレスクをして、ライティングしてます。

というライティング自体が、パフォーマティブなパフォーマンス、です。

相変わらず誰得罰ゲーム人生結局俺得。

ということで、以下、by C.

以下では、「読みやすさ・わかりやすさ」を意図的に追求しないまま、この文章がもつ特徴や意味作用を、別の観点(批評的・理論的な視点など)から考察してみます。文章表現としての“難解さ”や“断片性”がどのように作用しているか、またパフォーマンスやジェンダーに関する諸概念と交差しながらどんな問いを投げかけているのか――そうした点を中心にコメントします。

1. フィールドノーツとしての「断片性」と同時進行する自己観察

この文章は「フィールドノーツ」という位置づけで書かれており、学術的・理論的な整理よりも、自己観察の生々しさやその瞬間的な感情の記録が強調されているように見えます。
• フィールドノーツの特質: 民族誌や人類学などで使われる「フィールドノーツ」は、現地での観察や体験をそのまま書き留め、後からの分析に活かすための素材として機能します。ここでも、まさに「ジェンダーディスフォリア」という個人的・身体的なフィールドに身を置き、その揺れ動く感情や知覚を“ありのまま”書き連ねている。
• 断片性と未整理の力: 本文では、論理的に整理されていないからこそ、書き手の戸惑いがそのまま浮かび上がり、文章が断続的な切れ目(改行や途中の言いさし)をもって進行します。その断片性が「書き手の混乱」と連動し、読み手にも「この人は今まさにプロセスの最中なんだ」という臨場感を与えます。

この「生々しさ」「途中経過感」は、トランジションが持つ“終わりのなさ”や“時間的なズレの継続”を象徴しているとも言えます。フィールドノーツの形式を借りながらも、実際には書き手自身が「フィールドそのもの」と化しているわけです。

2. パフォーマンスと身体:見る/見られる/見たくない

文章内ではパフォーマーとしての身体の使い方と、ジェンダーディスフォリアによる身体からの乖離が同時に描かれています。ここには、いくつか興味深い視点があります。
1. パフォーマンス=視線の交換の場
• 観客の視線と書き手の身体が出会うパフォーマンスは、書き手自身のジェンダー認識を突きつける場ともなりやすい。
• 「フェミニンな身体を前提とするパフォーマンスはもうできない」という告白は、見た目やジェンダーの表象を利用してきた表現形態を自ら手放す宣言でもあります。
2. バスルーム以外で身体をほとんど見ないという行動
• 自分が自分の身体を“見る”行為をなるべく避ける一方、パフォーマンスでは(過去には)観客に身体を見せていたという逆説がある。
• 「見せたいが見たくない」「見られることも混乱を呼ぶが、見られないとアイデンティティが揺らぐ」というアンビバレントな状況が、文章から浮かび上がる。

こうしたパフォーマンスと身体の関係は、ジュディス・バトラーの「パフォーマティビティ」概念とも無関係ではありません。バトラーが言うジェンダーのパフォーマティビティとは、繰り返しによるジェンダーの構築を指しますが、ここではそれが実際の“舞台パフォーマンス”とも結びつき、かつ「トランスジェンダーとしてのパフォーマティビティが途中で中断される/切り替わる」現場が示唆されているのです。

3. あるものを要らない/ないものをあるべき:欠如と代替物

本文の冒頭で語られる「あるものを要らない、と思うのは思いやすいけれど、ないものをあるべき、と思うのはどう可能なのか分からなかった」という指摘は、ジェンダーディスフォリアの本質を突く重要な一文だと感じます。
• あるものの拒絶: たとえば乳房や“女性器”など、生来的に与えられた身体パーツが「自分のジェンダーとは違う」と感じる場合、その部位を「要らない」と思う。比較的よく語られる「違和感」のかたち。
• ないものへの欲求: 一方で「本来ならあるはずのものがない」と感じる違和感は、それが“物理的にないもの”なので余計に認知しづらく、そしてどう埋めればいいかも分からない。

これを身体拡張やプロテーシス(prosthesis)の概念から見ると、パッキングによって身体の一部を補う行為は「欠如を埋める」という機能のみならず、同時に「作り物であることに対する自傷的な痛み」をも生むと書かれています。この二重性——「埋めることで安堵する感情」と「作り物であるという事実に突きつけられる痛み」——こそが、文中の核心的なテーマとして描かれています。

4. ジェンダーアイデンティティと性的な関係性:隔絶から浮かび上がる自己像

本文の途中で「ジェンダーアイデンティティは性的な関係性に左右される、というのが最新の心理学・精神医学的知見だ」という言及があります。それとの関連で、書き手はあえて性的な関係を断ち、誰かとの身体的な接触を避けることで、自分の欲望や身体の在り方を見極めようとしている。
• 自己定義と他者の視線/身体接触の関係: ここで言われているのは、他者とのセクシュアルな場面で見出される自分の身体感覚がジェンダーアイデンティティに影響を与える、という仮説の実験的アプローチとも言えます。
• 外的刺激の排除=純粋な内面との対峙?: しかし実際には、まったく外的刺激を遮断することなどできるのか、という問いも残ります。社会の中で生きる以上、他者との関係性や視線は完全には断ち切れない。
• 「3ヶ月やってみた」そして「フェミニンな身体でのパフォーマンスがもうできない」との認識: この結果は、書き手にとって新しい発見であり、同時に「見られることを前提とした身体表現への違和感」がより鮮明になったという意味でも象徴的です。

5. トランジションという“無期限”の時間

最後の「トランジションには、本当に時間がかかる。落ち着くまであと3倍はかかりそう」という文言が、この文章全体を締めくくります。「3年半が経って、なお3倍必要」という具体的な数字が示唆するのは、トランジションの長期性・反復性・予測不能性です。
• 終わりのない生成過程: トランスジェンダー当事者の多くが経験する「いつになったら自分の身体に馴染めるのか、あるいは馴染めないのか」といった問題意識に、本文は個人的な言葉で真っ向から突き当たっています。
• オペへの期待と不安: “手術さえ済めば”という期待と、“済ませてもまだ違和感が残るのでは”という不安。その二つがないまぜになった心境が「一生かけての問いかもしれない」というメッセージとして読者に伝わります。

このように、時間的にも、身体的にも、そして社会的・関係的にも「揺れ続ける」状態をありのまま記述している点こそが、この文章の一貫した強度だと言えます。

まとめ:混乱そのものを表現する文章がもつ力

このテクストは、意図的に論理的整理や“読みやすさ”を求めないからこそ、生々しい混乱や矛盾をそのまま表に出します。文章中で繰り返される「思う」「わからない」「傷つく」といった語彙は、読者の思考を一気に当事者の混沌へと引き込む装置になっています。まさしく「書き手が今、トランジションの真っ只中にいる」ということを呼び起こす力があり、そこにこの文章の批評的価値があります。
• 混乱の持続と記述の暴力性: 混乱自体を隠さず書く行為は、読み手にとって“わかりやすい物語”を提示しないという点で、ある種の暴力性を伴います。しかし、それがトランジションの実際の姿でもある。
• 個人的なストーリーの普遍性: パフォーマンスや身体との闘い方は人それぞれ違っても、ジェンダーディスフォリアに伴う「自己の身体への違和感と、それを解消するために必要な行為」との関係性において、本文章が描く矛盾と痛みは多くの当事者に通じる部分をもっているでしょう。

最終的に、この文章が問いかけているのは「身体はだれのものか?」「自分の身体感覚はどうやって獲得されるのか?」という、ジェンダー論の根源的なテーマです。書き手は、その答えをまだ持っていない。そして、読者にも容易に答えを与えない。それこそが、読みやすさ・わかりやすさを排除したまま残る、このテクストの核心的な意義だと考えられます。 

以下は、より具体化したコマンドによるC.

以下では、このテクストを「スラムライティングとしてのフィールドノーツ」と位置づけ、いくつかの観点から分析的に評価し、その特徴や意義について詳しく解説します。スラムライティング(slam writing)は、一般的に即興性・パフォーマンス性・生々しさを重視する表現スタイルと結びつけて語られますが、本稿ではあくまで「その生々しさや直接性を前面に押し出し、個人的体験を強烈に吐露する文体・構成」として捉えます。また、「フィールドノーツ」であるという点から、人類学や民俗学のような“現場での生々しい観察記録”としての性格も重ね合わせて考察します。

1. スラムライティングとしての即興性・直接性
• 即興性と文章の「息づかい」
テクスト全体から立ち上がるのは、推敲されつくした整然とした論文のような印象ではなく、書き手の戸惑い・混乱・痛みがリアルタイムで記録されているような「息づかい」です。これはスラムライティング特有の、言葉を絞り出す過程そのものを文章化したかのような即興感に近いものが感じられます。
• 「しかしさ、結構生々しい作り物であるので、そのこと自体に、激しく傷つく。」
• 「つまり、早く済ませてしまいたい。済んでからも、きっと慣れるのに暫くかかるか、こんなはずじゃないのにと、一生思うのか。」
こうしたフレーズには、論理的展開よりも「吐き出す」行為が先行しているようなリズム感があり、スラムライティング的な“声の痕跡”が感じられます。
• 強いパーソナルなトーンと当事者感
スラムライティングが“自分の物語”をストレートに表出する特徴をもつように、この文章も「ジェンダーディスフォリア」に関する当事者経験を、隠し立てなく赤裸々に開示しています。とりわけ、「自分で触ると、あったわ、あって本当に良かった〜」などは、一般的な散文が回避しがちな“身体そのもの”に対する喜び・痛みがむき出しであり、パフォーマンス的な強度を帯びています。

2. フィールドノーツとしての“現場記録”と未整理の力
• フィールドノーツの定義と本テクストの位置づけ
フィールドノーツとは本来、研究者が現地(フィールド)で得た観察や体験をそのまま記録していくメモや日誌的なものです。この文章が「フィールドノーツ」として機能しているのは、**書き手自身の身体と心の“現場”**を観察対象として扱っているからだと言えます。つまり、「トランジションの渦中にある自分の身体と精神状態」というフィールドを、自分自身で観察し、そのまま書き留めているのです。
• 未整理の断片が示すプロセスのリアリティ
フィールドノーツは後から分析や編集を行う前の“生の記録”であることが多く、しばしば矛盾や混乱を含む断片的なメモとして蓄積されます。本テクストでも、
• ある部分ではオペへの期待が前面に出ている
• 一方では「オペ後も違和感が残るのでは」という不安が顔を出す
といった内的矛盾がそのまま並置され、書き手の心情が一貫して整理されていない。この未整理さこそが「いま起きているプロセス」をそのまま切り取ったリアリティを生み出しており、フィールドノーツの性格を強めています。

3. パフォーマンス・混乱・ジェンダー:三重の交差点
• パフォーマンス性
この文章では、スラムライティングとしての直接性に加え、書き手が実際に「パフォーマンス(舞台などでの身体表現)を行う人」である点が強調されています。つまり、舞台上での「身体を見せる/魅せる」行為と、私生活での「身体をなるべく見たくない」行為が強烈にコントラストをなしています。
• 「フェミニンな身体を、そのまま使うのが前提のパフォーマンスは、もうできないと思うようになった」
• 「パフォーマンスは、オーディエンスを混乱させるのも、目的の一つだから、それなりに自分でも大丈夫なことに、しておける」
この対比は、ジェンダーをめぐるパフォーマンスの多層性(演じる/演じられる/認知する/認知される)を浮き彫りにします。
• 混乱そのものが芸術的装置となる
スラムライティングにおいて、自身の痛みや怒り、混乱をそのまま作品化することは珍しくありません。このテクストでも、「自分でも混乱するから。だと思う。」など、本人が整理しきれていない感覚を言葉に叩きつけるような場面が目立ちます。
• 読者(オーディエンス)は、文章の混乱の中に巻き込まれ、書き手の苦悩を追体験する。
• それ自体がひとつのパフォーマンス的効果でもあり、“混乱”の提示がテーマの核心になっていると言えます。
• ジェンダーと身体イメージの二重・三重構造
文章に繰り返し登場する「パッキングする/しない」「ある/ない」「要らない/あるべき」の対照が、身体イメージの二重構造を端的に示しています。スラムライティング的に言えば、「聴衆(読者)の前で自分の身体をどのように見せるか」を問いながら、「そもそも自分はその身体をどう認識しているのか」で葛藤している。その揺れ動き自体が“舞台”になっているわけです。

4. テクストの構造・リズムがもたらす“傷つき”の共有
• 短いフレーズと畳みかけのリズム
この文章では長い説明文は少なく、比較的短いフレーズを連ねることでテンポよく“自分の実感”を吐き出す形になっています。
• 「存在感がないと、不自然だからだ。服を着た状態の見た目として。それは、見た目の問題なので、分かりやすい。」
• 「つまり、早く済ませてしまいたい。済んでからも、きっと慣れるのに暫くかかるか、こんなはずじゃないのにと、一生思うのか。」
文章が行きつ戻りつしながらも、短い断定・疑問形を連続することで、スラム的な「言葉のパンチ」を醸成しています。
• “傷つき”を隠さずさらけ出す効果
作り物(パッカー)を装着することで安心を得つつも傷つく、その二面性が繰り返し述べられています。スラムライティングでは、弱さや痛みをあえて“魅せる”ことで読者・観客に訴求することが多いですが、この文章も「この痛みに長期的に慣れられないだろう」という苦悩を率直に語ることで、深いエンパシーや問題提起を促しています。
また「こんなはずじゃないのに」と一生思うかもしれない、という時間的な終わりなさも、大きな“傷つき”として提示されます。

5. 分析的価値と意義:当事者的視点の共有と、“語り”のパフォーマンス

以上のポイントを踏まえ、この文章がもつ分析的価値や意義は大きく分けて2つあります。
1. ジェンダー・トランジションの当事者視点を生々しく伝達するドキュメント
• 医学的説明や社会学的論説では得られない、体感的リアリティを含んだ“生の声”がここにある。
• スラムライティング特有の直接性が、読者に「頭ではなく身体で感じる」経験を引き起こす。
2. 身体をめぐるパフォーマンスの内在化:見る/見られるの相互関係を覆す試み
• 書き手がパフォーマンスの専門家だからこそ、普段は“見せる身体”に対して抱く違和感を、逆説的に“言葉で見せる”という構図が発生している。
• 混乱や葛藤をネガティブに隠すのではなく、むしろそれを舞台(テクスト)上で表現することで、読者を巻き込み問題提起するという機能がある。

結論:未完であること自体が“完成形”のスラムライティング・フィールドノーツ

この文章は、トランジションのプロセスがまだ続いており、身体への違和感やアイデンティティの混乱が「終わらない」ことを繰り返し示唆しています。それゆえ、“未完”であること自体が、ひとつの完成形として機能しているのが特徴的です。
• スラムライティングは、その即興性や一回性ゆえ「ここで語られた言葉は、ここでしか成立しない」という儚さ・切実さが魅力ですが、同じことがこのフィールドノーツにも言えます。
• フィールドノーツとしては、後の分析やさらなる書き足しを前提とする“素材”の側面がありますが、それをあえて文章として公開・提示することで、既にある種のパフォーマンスが完結している。
• 読者は、終わりの見えないトランジションの葛藤を「生の声」として受け取り、その時間的なズレや痛みを共有する。そこにこそ、スラムライティングとしての強度と、フィールドノーツとしての現場感が存立しているのです。

以上のように、本テクストはスラムライティング的な直接性・即興性と、フィールドノーツ的な“生々しい現場観察記録”としての性質をあわせ持ち、ジェンダーやパフォーマンスの問題を読者に強烈に突き付ける力を持っています。混乱と矛盾を整理せず提示するその姿勢こそが、書き手の身体に宿る“いままさに起こっていること”を鮮明にする最大の要因であり、当事者であることの重みを余すところなく示す分析的に貴重な資料といえるでしょう。

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