ミュージカル映画の歴史を、KPOPオタクのノリで語ってみた
KPOPの歴史について語られる際、①四大企画会社(SM YG JYP HYBE)が、②各世代で、③どんなコンセプトで、④どんなスターを生みだしたか、の4軸で整理されることが一般的に行われています。
これってミュージカル映画の歴史を説明するのにも応用できる気がしませんか?
というのも、ミュージカル映画もKPOPと同様に、BIG5と呼ばれる大手映画会社によって様々なコンセプトやスターを生み出し合いながら、競い合いながら発展してきたという歴史があるからです。
是非KPOPファンの方は、この会社って、このスターってKPOPで例えると〇〇だな……なんて思い浮かべながら読んでいただけると幸いです。
BIG5(WB MGM PP RKO FOX)の時代
かつてミュージカル映画は、BIG5と呼ばれた大手映画会社(以下の5つ)
ワーナーブラザーズ ※以下WB
MGM
パラマウントピクチャーズ
RKO
20世紀FOX
が切磋琢磨するなかで製作されていました。この競争により様々なコンセプトが生み出され、クオリティが高められていったのです。
第一世代 1927~32 WBからミュージカル映画史は始まった
初めてミュージカル映画『ジャズシンガー』を1927年に製作したのは、WBでした。この映画は業界の予想を大きく裏切り大ヒットします。このヒットに触発され、後追いでMGMが『ブロードウェイ・メロディー』という作品を製作しました。
この『ブロードウェイ・メロディー』がまたしても記録的な大ヒットを遂げアカデミー賞まで受賞したことで各社がこぞってミュージカル映画を作るようになり、1950年代前半まで続くミュージカル映画 戦国時代に突入したのでした。
こうして、ミュージカル映画史は先行するワーナーとそれに追従するMGMという構図から始まりました。
1.「オンパレード」コンセプト
この時代に流行ったのが「オンパレード」コンセプト。オンパレードという言葉自体、『パラマウント・オン・パレイド』(1930)というミュージカル映画のタイトルから日本でも広がったと言われています。
「オンパレード」コンセプトの特徴は、映画会社の抱えるサイレント時代からのスターが勢ぞろいして、そこにプラスアルファで旬のジャズ奏者などを呼んで、歌・ダンス・コントなどの見世物を次々と披露していくという構成となっているところです。
ちなみに、当時アメリカのブロードウェイではミュージカルという演芸はあまりまだ発達していませんでした。ミュージカルって実はミュージカル映画とほぼ同時並行で互いに影響を与えながら発達してできあがったものなのです。
当時、ブロードウェイで人気があったのは『ジーグフェルド・フォーリーズ』(1907~1931)に代表されるレビューでした。レビューとは、イギリスのミュージックホールという娯楽施設で発展した演芸を輸入してアメリカ人好みにしたもの。(イギリスのミュージックホールがフランスに輸入されて発展したのがムーラン・ルージュで、日本に輸入されて発展したのが宝塚といわれています。)
このレビューという演芸が派手な舞台装置で演出された歌やダンスやコントという見世物が次々と続く構成であったため、当時のミュージカル映画もそのような構成をとったものが多かったのです。
これは、『キング・オブ・ジャズ』(1930)という映画。1930年時点で映画に色がついている(フルカラーではないんですね)ことに驚く人もいるかもしれませんが、こういった作品が各社で競って作られました。
MGM:ハリウッド・レヴュー(1929)
WB:ザ・ショウ・オブ・ショウズ(1929)
パラマウント:パラマウント・オン・パレイド(1930)
2.WBにおけるアル・ジョルスンという大スター
また、この時期ブロードウェイですでに人気のあった芸人アル・ジョルスンがWBと契約。彼が主演をつとめた映画が軒並み大ヒットします。
(『ジャズ・シンガー』(1927)、『シンギング・フール』(1928)、『マミィ』(1930))
アル・ジョルスンの特徴は、ミンストレルショーです。ミンストレルショーとは、白人があえて顔も体も黒塗りにしステレオタイプの黒人を大袈裟に演じることで笑いを取るという差別的なショーのこと。今ではそのモチーフを扱うこと自体がタブーとなっています。
実はアメリカにおいてミンストレルショーが本当に流行ったのは1800年代半ば。日本に黒船が来航した際にも幕府相手にも披露されたといわれています。そう考えると、ミュージカル映画史における最初のスターは、100年くらい前の古い演芸をあえてやることでウケを取るタイプの芸風だったといえるのではないでしょうか。今で言うすゑひろがりずのようなイメージだったのでしょう。
3.パラマウントのオペレッタコンセプト
この時代、ストーリー性の高いミュージカル映画を製作していたのはハリウッドというよりむしろドイツやフランスでした。
ヨーロッパにはオペレッタというオペラのお気軽版ともいえる大衆向けの演芸が存在しており、このオペレッタの映画版として数々の名作ミュージカル映画がヨーロッパで製作されていたのです。歴史の教科書でも取り上げられることがあるドイツ映画『会議は踊る』はその代表例です。
上. 代表的なドイツのオペレッタ映画『ガソリン・ボーイ三人組』(1930)より
これらのヨーロッパ製オペレッタ映画に強い影響を受け、アメリカにおいてもパラマウントを中心にオペレッタコンセプトの映画が作られるようになります。
これはパラマウントで製作された『陽気な中尉さん』(1931)という作品のワンシーンですが、これまでの映画よりずっとミュージカル映画っぽいと感じられるのではないでしょうか。ストーリーと歌唱が融合がみられるヨーロッパ由来のオペレッタは、ハリウッド製ミュージカル映画のみならずブロードウェイのミュージカルの発展にも強い影響を与えたのでした。
第一世代 まとめ
流行ったコンセプト
各社:オンパレード(各社の所属スター総出演、レビュー形式)
パラマウント:オペレッタ(ストーリーと歌唱の融合)
代表的なスター
WB:アル・ジョルスン(過去の流行となっていたミンストレルショーの真似事で人気)
パラマウント:モーリス・シュヴァリエ(ハリウッド製オペレッタコンセプトで重宝されたフランス人の俳優)
MGM:チャールズ・キング(ブロードウェイ・メロディの主演で一躍大人気、ただし一発屋)
第二世代 1933~38 夢の工場 WBと猛追するRKOとFOX
世界恐慌のなか、気軽に安く触れられるエンターテインメントとしてミュージカル映画はますます人気が高まります。こうしたなかで、特にWB・RKO・20世紀FOXの3社が各社独自のコンセプトを打ち出し、それぞれが大変な人気を博します。
第二世代こそ、WB・RKO・20世紀FOXの3社を中心に最も各社が激しく競争し、拮抗していた時代と言えるのではないでしょうか。
一方でMGMは1927年に『ブロードウェイメロディー』を大ヒットして以降は、目立ったスターを自社から輩出することができずやや低迷期に入っていました。
※ちなみにパラマウントは、この時代すでにラジオで大変な人気のあった歌手ビング・クロスビーを迎え、ラジオを舞台としたいわゆる”大放送”コンセプトの映画で一定の人気を誇っていました。
1.WBの全盛期(人間万華鏡コンセプトとバックステージミュージカル)
ミュージカル映画の歴史の先頭を走っていたWBが第二世代で破格の人気を得たのが、振付師バズビー・バークリーが振付をした「人間万華鏡」コンセプトの映画です。
上. ミュージカル映画史における画期『四十二番街』(1933)
上. 同じ布陣で製作された『フットライトパレード』(1933)
人間万華鏡というのは、大量の美女が円を作りそれを上部からカメラで撮影してとる派手な過剰なパレードのような群舞のことを指します。(バークリーショットとも言います。)これがバズビー・バークリーの振付の特徴で下。
これまで舞台を正面からカメラでとらえただけの作品が多かったのですが、ついにカメラが自由を獲得し、ダンスをあらゆる角度から工夫されたカット割りで撮影するようになったのです。
これらの作品にはもう一つ特徴があり、ショービジネスの裏側を描くストーリーとなっているという点が挙げられます。ショービジネスを物語の舞台に設定することで大規模なダンスシーンを映画のストーリーに組み込むことが可能になったのです。これを一般にバックステージ・ミュージカルといいます。
これらのコンセプトを打ち出すことで、バズビー・バークリーはまさに時の人となり、同様のコンセプトの作品がWBでたくさん製作されました。WBのスタジオには彼の映画に出ようと全米の美女がこぞって集まりました。
作品:『四十二番街』(1933)、『ゴールド・ディガース』(1933)、『フットライトパレード』(1933)、『泥酔夢』(1934)、『ゴールド・ディガース36年』(1936)、『大学祭り』(1937)、『踊る三十七年』(1937) など多数
特に『ゴールド・ディガース』はシリーズ化され大変な人気を博しました。このネオン管のつけられたバイオリンが優雅に踊るシーンなんかは今でも一見の価値があると思います。
※WBによるゴールドディガース・シリーズのヒットの影響は大きく、少し遅れて1936年、MGMでも似たようなストーリーのシリーズ作品を、エリノア・パウエルというタップダンスの女王と呼ばれたダンサーを主演にして、はじめています。
上. 『踊るアメリカ艦隊』(1936)におけるエリノア・パウエルのタップシーン
2.RKOの名コンビ、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース
またこの時代、RKOからもフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースによるデュエットダンスをコンセプトとした映画が大変人気を博し、二人を主演とする映画が毎年のように何作も何作も製作されました。
作品:『空中レビュー時代』(1933)、『コンチネンタル』(1934)、『ロバータ』(1935)、『トップハット』(1935)、『艦隊を追って』(1936)、『有頂天時代』(1936)、『踊らん哉』(1937)、『気儘時代』(1938)、『カッスル夫妻』(1939)
上. 『コンチネンタル』(1934)下. 『ロバータ』(1935)における典型的なスタイルで演じられるデュエットダンスシーン
フレッド・アステアの特徴はその燕尾服とシルクハットという特徴的な衣装で魅せられる映像映えする洗練されたダンススタイル。彼こそ、ダンスの巧さでスターとなった最初の人物と言えるのではないかと思います。
特に彼の得意技と言えるのがその技巧的なタップダンス。昔のミュージカル映画と言えばタップダンスというイメージが今も色濃く残っているのは彼の影響が非常に大きいのです。
3.20世紀FOXの躍進(子役・フィギュアスケート・金髪美女)
第一世代では目立ったミュージカル映画を製作できなかった20世紀FOXが子役・フィギュアスケート・金髪美女の3本柱で躍進を遂げます。特に3つ目の金髪美女は、20世紀FOXの看板コンセプトとして後の世代に至るまで引き継がれることになりました。
1つ目の子役コンセプトを支えたのがシャーリー・テンプルです。
上. 『テムプルの愛国者』(1935)でボージャングルとタップを踊るテンプル
シャーリー・テンプルはタップダンス界の神さま的存在であるボージャングル(左)と多くの場合セットで売り出され、不況のアメリカを癒す純粋無垢の天使として全米で尋常じゃない人気を博しました。
作品:『輝く瞳』(1934)、『小連隊長』(1935)、『テムプルの愛国者』(1935)、『テンプルちゃんお芽出度う』(1935)、『私のテンプル』(1935)、『テンプルの燈台守』(1936)、『テンプルの福の神』(1936)、『テンプルのえくぼ』(1936)、『テンプルの上海脱出』(1936)、『テンプルの軍使』(1937)、『天晴れテンプル』(1938)、『農園の寵児』(1938)
2つ目のフィギュアスケートコンセプトを支えたのはオリンピック三大会連続金メダルを獲得した伝説的なフィギュアスケーター、ソニア・ヘニーでした。彼女のスケートを一目見ようとアメリカ国民は映画館に押し寄せたのでした。
上. 『銀盤の女王』(1936)におけるスケートシーン
20世紀FOXの金髪美女路線は、アリス・フェイというスターから始まりました。この路線は20世紀FOXの看板コンセプトとして後の世代にも受け継がれることになります。
上. 映像は後述する南米ブーム下で製作されたミュージカル『ウィークエンド・イン・ハヴァナ』(1941)のシーン
第二世代 まとめ
流行ったコンセプト
WB:ミュージカル映画界の先頭ランナー
人間万華鏡(バズビー・バークリーが振付)
バックステージミュージカル(物語の舞台がショービジネスの裏側)
RKO:フレッド・アステアとジンジャーロジャースのデュエット
20世紀FOX:
子役(不況のアメリカを癒す天使)
フィギュアスケート(スポーツ選手出身スターのさきがけ)
金髪美女(FOXの看板路線のはじまり)
パラマウント:
ラジオコンセプト(ラジオ局が舞台のシリーズ作品がヒット)
MGM:独自コンセプトは無し
代表的なスター
WB:その他大量の美女を抱える
ディック・パウエル(バズビー・バークリー作品の常連歌手)
ルービー・キーラー(バズビー・バークリー作品の常連ダンサー)
RKO:
フレッド・アステア(燕尾服にシルクハットがトレードマーク、映像映えするタップダンスを得意とする)
ジンジャー・ロジャース(フレッド・アステアの名相方)
20世紀FOX:独自コンセプトでWBを追い越す勢い
シャーリー・テンプル(伝説的子役ダンサー)
ソニア・ヘニー(伝説的フィギュアスケーター)
アリス・フェイ(元祖金髪美女路線)
パラマウント:ビング・クロズビー(アメリカ音楽を代表する歌手)
MGM:低迷期
エリノア・パウエル(タップダンスの女王)
第三世代 1939~43 FOXの金髪美女人気とMGMの復調
1.子役スター、ジュディー・ガーランドの獲得とMGMの復調
低迷期に入っていたMGMは、FOXのシャーリー・テンプルがはじめた子役ブームにあやかるかたちでジュディー・ガーランドという子役スターを獲得。また、30年代において時代の寵児だった振付師バズビー・バークリーをWBから引き抜きを行います。
こうして、バズビー・バークリーが振付、ジュディー・ガーランドという子役が主演という売れる要素満載の映画シリーズとして裏庭ミュージカルを制作し、アメリカにおいて一定の人気を集めることになりました。
作品:『青春一座』(1939)、『ストライク・アップ・ザ・バンド』(1940)、『二人の青春』(1941)、『ブロードウェイ』(1941)
上 .『ブロードウェイ』(1941)で愛国ソングを歌うジュディ・ガーランド
また、1937年独立系プロダクションであったディズニーが製作したおとぎ話コンセプトのミュージカル映画『白雪姫』が大ヒットすると、MGMはそれにあやかるかたちで1939年ジュディー・ガーランドを主演に同じく童話を原作とした『オズの魔法使』という作品を世に送り出し大ヒットを記録します。
また、FOXで人気を博していたソニア・ヘニーのフィギュアスケート路線に乗っかる形で、エスター・ウィリアムズという15歳で世界記録を打ち立てた有望な水泳選手と契約します。1940年に予定されていた東京オリンピックが中止になったことを受け、これはチャンスだ!とMGMが映画業界に引き抜いたのでした。
こうして水泳コンセプトの映画が作られるようになり一定の人気を博しました。ちなみに彼女の振付を担当したのもWBから引き抜いたバズビー・バークリーでした。
このようにして人気コンセプトの踏襲や他社他業界からの引き抜きを巧みに行うことで、徐々にMGMは低迷期を脱しようとしていました。
2.FOXの金髪路線の人気の継続
真珠湾攻撃をきっかけに第二次世界大戦にアメリカが参戦することになると、ミュージカル映画も戦争一色になっていきます。
映画は兵士の慰安目的という側面が大きくなり、その結果として20世紀FOXの金髪美女路線の映画が人気を博します。
この時代、20世紀FOXのアリス・フェイがはじめた金髪路線を引き継いでいたのが、ベティ・グレイブル。体調不良のアリス・フェイの代役として映画に出演したのがきっかけで一躍スターダムへと駆け上がります。そして彼女は当時のアメリカ兵から最も人気のある女優となったのです。
上. アリス・フェイの代役として主演を務めた『ロッキーの春風』(1942)のシーン
作品:『遥かなるアルゼンチン』(1940)、『マイアミにかかる月』(1941)、『島の歌』(1942)、『脚光セレナーデ』(1942)、『ロッキーの春風』(1942)、『コニーアイランド』(1943)、など多数
※この時期政府は親南米政策を打ち出し、その一環としてハリウッドでも南米ブームが巻き起こました。結果として南米を舞台とした映画が立て続けに作られることに。『遥かなるアルゼンチン』はその代表的な作品の一つです。そのような状況下でFOXのカメルン・ミランダというブラジル出身のスターが人気を博しました。
3.WBの愛国路線・キャンティーンコンセプトの映画の流行
同時期、WBを中心に戦時色の強い愛国路線の作品がたくさん製作されます。なかでも代表的なものとしては『ヤンキードゥードゥルダンディー』(1942)や『ロナルドレーガンの陸軍中尉』(1943)が挙げられます。アメリカの愛国心の強い英雄の活躍を描くことで愛国心を煽るようなストーリーとなっているところが特徴でした。
上. 『ロナルドレーガンの陸軍中尉』(1943)のシーン。
もう一つ人気を博したのがキャンティーンコンセプトの映画。キャンティーンというのは兵士の慰安を目的として設立された簡易的な娯楽施設のことを指します。そのような施設を舞台として描かれる映画がたくさん製作されたのです。『ハリウッド玉手箱』(1944)では、兵士とハリウッド女優がキャンティーンで出会い恋に落ちるさまが描かれ人気を博しました。
これらの戦意高揚映画は、WBだけでなくMGMやFOXなどにおいても一定数製作されました。
特に、MGMにおいては、体格が良くスタントやアクロバットもこなせるジーン・ケリーが戦意高揚映画の常連俳優としてキャリアをスタートさせることになります。例えば、『万雷の歓呼』(1943)ではジーン・ケリーが兵士たち相手に空中ブランコをしている様子を見ることができます。
第三世代 まとめ
流行ったコンセプト
20世紀FOX:金髪美女路線でトレンドのど真ん中に
金髪美女路線(依然として看板路線)
WB:
愛国路線(愛国心を全面に、戦意高揚が目的)
キャンティーンもの(兵士慰安施設を舞台)
MGM:裏庭ミュージカル(子役がメインのシリーズ)
各社:南米もの(親南米政策によりブームに)
代表的なスター
20世紀FOX:
ベティ・グレイブル(兵士から抜群の人気のあった金髪美女)
カメルン・ミランダ(南米もので重宝されたブラジル出身女優)
WB:ジェイムズ・ギャグニー
MGM:ジュディー・ガーランド(MGMが抱える子役)
パラマウント:ビング・クロスビー(依然として珍道中シリーズを中心に、人気継続)
MGM一強時代のはじまり
第四世代 1944~54 夢の工場 MGM一強時代
この時代、MGMのミュージカル映画を語るうえでかかせない人物であるアーサー・フリードが映画製作をはじめます。彼はもともと『ブロードウェイ・メロディー』の主題歌やMGMの社歌のような楽曲である『雨に唄えば』を手掛けた実績のあるMGM専属の作詞家でした。
そんな彼がプロデューサーとして1944年世に送り出した『若草の頃』という映画がミュージカル映画のカラーを一変させます。
1.ファミリーコンセプトの大流行
『若草の頃』という作品の特徴は、子役ジュディ・ガーランドの愛らしさではなく、家族の温かさを全面に打ち出しているところでした。
これまでのミュージカル映画と言えば派手な舞台装置や演出が凄かったり、戦争色が強かったり、ゴリゴリのタップダンスが売りだったりしたのですが、『若草の頃』という作品はとにかく緩くて優しくて温かい、そしてちょっと懐かしいのが特徴。
この作品以降、家庭的で親しみやすいカラーがミュージカル映画のトレンドとなります。無理やりこじつけるとイージーリスニング的な作品だったのです。その新鮮さがウケにウケ風と共に去りぬに次ぐ破格の大ヒットを遂げます。
これまでMGMは他者の追随に甘んじることが多かったのですが、この映画のヒットにより立場は逆転します。20世紀FOXは『ステージ・フェア』という同様のファミリーコンセプトの作品をMGMに追随して製作せざるをえなくなったのです。
上. FOXの『ステート・フェア』(1945)、衣装・セットともに『若草の頃』からの強い影響を感じます。
アーサー・フリードは、『若草の頃』以降もMGMにおけるミュージカル映画製作においてプロデューサーとして強大な影響力を発揮し続けました。
そんな彼のもと美術・衣装などのセンスにおいてはヴィンセント・ミネリが、優れた色彩感覚のもとに洗練された映像美を演出し、
振付面においてはジーン・ケリーや彼の親友でもあるスタンリー・ドーネンという、かつてのバズビー・バークリーとは一味違う新時代の振付師が活躍し、彼らによって新感覚で創造性豊かな名作映画が次々と作られるようになりました。
2.ジーン・ケリーの大活躍と、空前のバレエブーム
こうしてアーサー・フリードが映画製作に携わるようになったことで、MGMミュージカル映画は突如流行の最前線に立つことになりました。そしてかつてのWBがそうであったように、MGMにも巨大なスタジオが次々と建設され、アメリカ中の美女が憧れ群がるようになりました。このように次々とスターが増えていったMGMは「天上の星より勝るスターの数」を誇るようになります。
ちなみに、ネット上の昔のミュージカル映画についての記事はこの第四世代のものばかりです。
そんななかで、かつて戦意高揚映画を中心に出演していた俳優ジーン・ケリーが振付の才能を発揮するようになります。もともとアクロバットやスタント的な動きも得意で、なおかつタップもできる彼の振付はその多彩さが魅力だったのですが、この時代に彼が大事にした振付のルーツは、小さい頃から大好きでずっと憧れていたバレエでした。
元々多彩な振付のできる才能の持ち主だった彼は、バレエを取り入れた振付スタイルで一世を風靡することになります。特に『巴里のアメリカ人』でのバレエシーンは評判を呼び、アカデミー賞作品賞を受賞することになります。
※この時代のミュージカル映画には、歌詞・セリフ無し・マイムだけで感情や登場人物の内面を表現するタイプのバレエシーンがクライマックスで長時間挿入されることがあります。これを「夢のバレエ(Dream Ballet)」と呼びます。当時のバレエシーン需要の高さを感じます。
また、彼は無類のバレエ好きが高じてヨーロッパのバレリーナの引き抜きを自ら積極的に行いました。彼の引き抜きによってハリウッドスターへと転身を遂げたレスリー・キャロン、シド・チャリシーは元バレリーナのハリウッドスターとしてMGMの新たな看板スターとなりました。
作品:『踊る大紐育』(1949)、『巴里のアメリカ人』(1951)、『雨に唄えば』(1952)
この時代、1930年代RKOに所属しジンジャー・ロジャースとのデュエットダンスで一世を風靡したフレッド・アステアが、再契約先としてMGMを選びます。
上. 『イースター・パレード』(1948)のワンシーン。
その結果、フレッド・アステアのスタイルも一変します。このようにアーサー・フリードの作品らしく親しみやすさや懐かしさが全面に出ていて、かつてのタップダンスゴリゴリの彼はうまいぐらいに封印されたのです。
上. 『バンド・ワゴン』(1953)の有名なデュエットダンスシーン
この作品でも得意のタップダンスはいったん封印して、優雅で美しいダンスを元バレリーナのシド・チャリシーと踊っています。こうしてアーサー・フリードのプロデュースのもとフレッドアステアは時代に合わせたスタイルに切り替えることで再ブレイクを果たしました。
3.金髪美女路線を貫く20世紀FOX
この時代もなお時代に流されずに看板の金髪美女路線を貫いていたのが20世紀FOXでした。この時代の金髪美女路線を支えたのがマリリン・モンローでした。
これは、『紳士は金髪がお好き』(1953)という作品のマリリン・モンローですが、時代のトレンドとは無関係にゴリゴリに華やかに踊っています。一方で、彼女のミュージカル映画への出演は決して多くありませんでした。
(『お熱いのがお好き』のような非ミュージカル映画で歌唱シーンを披露することはある。)
第四世代 まとめ
流行ったコンセプト
MGM:アーサー・フリードがトレンドを一変
ファミリーコンセプト(家庭的で親しみやすい作品が増加)
バレエ(ジーンケリーを筆頭に、振付がバレエメインに)
20世紀FOX:金髪美女路線(マリリン・モンローが牽引)
代表的なスター
MGM:天上の星の数よりも多いスターがキャッチコピー
ジュディ・ガーランド(親しみやすく家庭的なスターの先駆け、1950年突如契約解除させられる)
ジーン・ケリー(振付にバレエを取り入れトレンドに)
フレッド・アステア(元RKOのスター、MGMで再ブレイク)
シド・チャリシー(元バレリーナ)
レスリー・キャロン(元バレリーナ)
フランク・シナトラ(アメリカ音楽を代表する歌手、オクテでシャイなキャラで人気に)
20世紀FOX:マリリン・モンロー(圧倒的な色気で人気に、新しい自立的な女性像を演じた)
WB:ドリス・デイ(親しみやすく家庭的なイメージで人気に)
パラマウント:オードリー・ヘップバーン(元バレリーナ志望)
MGM一強時代以後のミュージカル映画
どうしてもミュージカル映画の歴史を振り返る記事って第四世代の話がメインになりがちで、どうしてもMGM一強のイメージがつきまといます。ただ改めてこうしてKPOPの考え方を応用することで、MGMが当初は他者のコンセプトを追随したり引き抜きばかりしていた会社で、ミュージカル映画の代名詞となるのはアーサー・フリードが『若草の頃』をヒットさせた以降のせいぜい10年間程度の話であることが結構はっきりとわかります。
ちなみに、1955年以降はハリウッドスタジオシステム自体が崩壊してしまいます。強大な力を持つスタジオを中心にスター・タレントが集められミュージカル映画が製作される、という従来のやり方は通用しなくなったのです。
結果、ブロードウェイのミュージカル関係者を中心にミュージカル映画が製作されるやり方へと手法が移り変わりっていきました。
こうして、『オクラホマ!』(1955)以降、や『王様と私』『南太平洋』などミュージカル界の大物リチャード&ハマースタインによる作品が多く作られるようになりました。これらは、スタジオでブロードウェイでヒットしたミュージカルの世界観を再現してそれを撮影して映画とするような作品でした。
さらに、1961年の『ウエストサイド物語』の大ヒットはミュージカル映画の質を大きく変化させます。それまでのミュージカル映画は、現実とはかけ離れた世界観として作り込まれた夢の装置としてのスタジオのなかで撮影されるものでした。一方で『ウエストサイド物語』はスタジオにおける夢の具現化ではなく、社会問題を反映・ロケ撮影の活用などリアリティーを追究した作品だったのです。
この映画の大ヒットにより、かつての古典ミュージカル映画は完全に終焉を迎え、リアリズム志向の現代ミュージカル映画が好んで作られるようにはなりましたが、ほとんどの作品はヒットすることなく(変わらず夢の世界を描き続けたディズニーを除いて)、ミュージカル映画というジャンル自体が死んでしまったのです。
(『ヘアー』(1979)、政治色強めの内容でリアリズム志向の作品です)
(『アニー』(1982)、同じく政治色は強めでリアリズム志向の作品です)
(『アラジン』(1992)、90年代はディズニーミュージカルが人気を博しました)
(『シカゴ』(2000)、実写ミュージカル映画として異例の大ヒット。)
(『ボヘミアン・ラプソディー』(2018)、この時期音楽スターの伝記ものが流行りますが、リアリズム志向なのは変わりません。)
さいごに:その他の中小におけるコンセプト
ちなみに、KPOPの歴史が四大企画会社だけで語れないように、ミュージカル映画の歴史においてもBIG5以外に中小様々なプレイヤーがいました。ひとつはアニメーションと実写の融合を試みたのがディズニー。
歌うカウボーイコンセプトで一定の存在感のあったリパブリック。ジーン・オートリーやロイ・ロジャースという歌うカウボーイ俳優を生み出しました。
中小企画会社から奇跡的に大躍進を遂げ8大映画会社の仲間入りをしたコロンビアもリタ・ヘイワースを主演にミュージカル映画を作っていました。
上. 『カバーガール』(1944)
中小ではないもののミュージカル映画においてあまり存在感のなかったユニヴァーサルでは、アボットとコステロというコンビによる凸凹コンセプトのミュージカル映画が多数製作されました。凸凹コンビという言葉はここから生まれました。
上. 『凸凹宝島騒動』(1942)より
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