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【読書論】積読と挫折、大学以前以後の読書について
1.積読の定義
今回は読書の話題、積読と挫折について語ります。
まず、言葉の定義から。
狭義の積読 :買ってから一切読んでいない本が溜まっている状態
広義の積読 :買って読んだが挫折した、あるいは中途の状態
最広義の積読:読了したが、意味不明で再読の必要があり、未再読の状態
だいたいこんな感じかと思います。
要するに、まだ読んでいない、理解が終わっていない本がある程度積まれた状態のことですね。一冊二冊なら積読ではなく【未読】と呼ばれます。
で、まずこの【積読】は悪いことなのか?
このことを考えようと思います。
2.積読の問題点と効用
積読が悪とされる一番の理由は、
「本は読んでこそ価値がある。読んでいないなら宝の持ち腐れであるから。」
というものでしょう。
確かに、一部のコレクターを除けば、基本的に本は読むためのものであり、読んでこそ真の価値を発揮する、というのは間違いないでしょう。その意味では積読を悪と認識したくなるのも、わからなくはないです。もったいないですからね。
しかし、また別の見方もあります。
読書好きの方ならわかると思いますが、うず高く積まれた本の山は、私たちに語りかけてきます。つまり、
「早く読んでくれ~。私を忘れないでくれ~。うらめしや~」
というわけです(うらめしや~は余計かもしれませんがwww)。
まあ実際にそんな声が聞こえるわけではありませんが、積読状態の本は無言のプレッシャーをかけてきます。なぜかというと、いつか積読を解消したい、すなわち読みたい、と私たちが無意識のうちに願っているからです。たとえどれだけ長い間積読状態が続いていたとしても、本が好きな人であれば、積読状態を無視することはできないのです。
だからこそ、本棚であれ、机の上であれ、本が私たちの目に入る限り、常に私たちに読書意欲を促すわけです。これは積読の効用といえます。
というのも、読みたいが手元にない本、あるいは図書館で借りているだけの本は自分の所有物ではないため、本棚や机に永住することはありません。だから、私たちに「読書せよ」というプレッシャーを与え「続ける」こともまた、ないわけです。だから、そういう本は私たちに知識を授ける「導きの書」にもならない。
借りている本の場合、「返さないといけないから読もう」という風に読書意欲を掻き立てる効果もありますが、返してしまった後は自分の本棚からなくなってしまうので、再読の機会・意欲を提供してくれません。また借りればいい話ですが、億劫だったり、他の人が借りていて読めなかったりするので、極めて不安定な状態に置かれます。こう不安定だと、内容をじっくり消化するのは難しいでしょう。
しかし、自分の手元にあれば、いつでも自由に、何度でも読むことができ、返却する必要もありません。だから、読んで知識を定着させる機会を得ていることになります。もちろん、積読のままだとその機会を活かせていないわけです。が、そもそも手元にないと定着の機会すら生まれないわけです。そういう意味ではむしろ、
「過剰な非積読は悪である」
とすら言えると思います。
積読には、読書を促し、知識定着の機会を創出する効果があるのです。
3.積読の原因と対策
とはいえ、積読の量が増えすぎ、処理できなくなってしまった方もいることでしょう。そこで、次に積読本が増える原因とその対策について考えます。
まず、積読本が増えるのは、本を買うからです。当たり前の話ですが、本は買わないと増えません。だから、本が増えすぎるのを嫌うなら、本を買うのを控えるのが手っ取り早いです。
しかし、読書マスターの皆さんならお気づきかと思います。そうやって積読を恐れるがゆえに本の購入を自粛し、積読を解消した後「さあ読むぞ」と意気込んで本屋に行ったら、もはやその本はなかった…という経験があること、その苦い経験ゆえに、読みたい本は片っ端から買うようにしているから、本が増えるのを防ぐことができない、ということを。
私としては、「本は一期一会」だと思っているので、読みたいと思ったら買うことを推奨します。ありきたりな表現ですが、「買わずに後悔より買って後悔」です。特に、新刊書ならともかく、ブックオフや古本屋で見つけた本は見つけるのが難しいので、基本的に買ってキープしておいたほうが良いと思います。私も青森石江のブックオフで岩波新書の『都市と水』を購入しましたが、やや古い本なので新刊書店で扱っているか不明です。内容も良かったので、買って正解でした。もしためらって後で買おうとしたら、かなりの苦労を強いられていたかもしれません。
まあそういうわけで、本を見ると血が騒ぐような私や皆さんの場合、本を増やさないことは難しいですね。
となると、過剰な積読状態を避けるにはどうしたら良いか、という対策に専念すべき、という話になってきます。さてどうしましょうか。
結論から言うと、「必要な箇所だけ読み、全部は読まない」ことで読書の効率を上げ、積読を解消していくことが大切かと感じます。
冒頭で積読の定義を一応書きましたが、私としては必要な箇所を読み、その部分を充分消化・吸収すれば、積読は解消された、と考えます。全部読むことは必ずしも必要ありません。実用書やエッセイの場合は、辞書と同じで必要な箇所だけ読めばいいですし、世界的名作とされている文学書・哲学書もつまらない、自分には合わないと感じたらそこで読むのをやめる。それで積読は解消されます。
※ただ一応補足しておくと、いわゆる要約動画やあらすじ紹介だけで「読んだことにする」というのはリスクがあります。要約やあらすじはあくまで他人の解釈にすぎず、テキストそのものではありません。あくまでも自分でテキストを読まないと内容が頭に入ってこない気がします。それと、読んだ内容を咀嚼して吸収するのには時間がかかるので、何度か読み直すことも必要で、一回で理解するのは難しいでしょう。
という話をしても、やはり問題は単純ではないですね。
そう、「名作の再読可能性」という問題に直面します。
すなわち、名作とされている本は、何度か読み返さないと価値がわからないものがあり、たとえ一度読んでつまらなかったとしても、それだけで評価することができない。どこかで再読の機会を与えなければならない。売るのはもったいないから、家に置くことになり、結果として最広義の積読になってしまう…というわけですね。
これに対する私の答えはこうです。
「確かに、名著には再読可能性を与えたほうが良い。しかし、それはあくまで可能性であって【必然性】ではない。絶対読み返すべき、というわけではないし、たとえ可能性を与えるべきだとしても、それが今である必要はない。あくまで現時点でつまらないなら、今は読む価値がないわけなので、一旦手放しても良いのではないか。」
要するに、名著でもつまらなかったら一度手放せ、というわけです。名著なら入手しやすい本も多いでしょうからね。手元からなくなれば、名目上は積読本ではなくなります。買い直すのに費用がかかりますが、読まない本を手元に置いておくと、余計なプレッシャーになり精神的コストが発生し、こちらのほうが負担が重いので、手放して良いと思います。
読みたくなったらまた買いましょう。その時は前回より内容が頭に入りやすくなっているはずです。知識が増えてわからない箇所が減ったり、何より一度読んだことが自信になるためです。
まとめると、
・貴重な本はとりあえず買おう。
・必要な箇所だけ読もう。
・(現時点で)読む価値がないと感じたら名著でも一旦手放そう
の三点ですね。
ちなみに、積みゲーも同じで、貴重なソフトは確保しておいた方が良いです。ゲームの場合は本と違い、必要な箇所だけプレーするというのは難しいですね。アドベンチャーゲームだと特定のルートだけ周回する、みたいな楽しみ方をしたり、RPGだとサブクエストは放っておくとか、色々工夫する余地はありますが、本のように「好きなとこだけつまみ食い」は難しいですね。ただ、つまらなかったら一度手放した方が良いのは本と同じです。
4.大学以前以後の読書について
次に、大学以前以後で読書がどう変わるか、これも積読と関わるテーマなので述べておきます。
大学以後は興味の幅が圧倒的に広がるので、積読本が増えやすいです。私の大学時代はまさに「大読書時代」でした。かつては旅行記やまちづくり、神話に関する本は殆ど興味がありませんでしたが、今では好んで読みます。子ども時代は児童書くらいしか読んでませんでしたからね。読む本の幅が全く異なるわけです。
ただし、興味が広がりすぎると、一冊一冊の本に集中できなくなる、という弊害が起きます。これはゲームでも同じで、お金がない子ども時代は好きなゲームを何周も遊んだけど、お金を得られるようになったら遊びたいゲームが増えすぎて、一本一本のソフトに集中できず、あまり楽しめない。一周して終わり、やりこむこともない。そして、子ども時代の懐かしさが蘇り、絶望する…。
まあ脱線しましたが、要は読みたい本ばかり増えて、読む時間が取れない、というわけですね。しかもネットの普及や娯楽の多様化により、読書時間食い虫は昔より増えているわけですから、なかなか難しい問題です。
そして大学卒業後は時間が足りない、あるいは意欲が起きないことから長編小説を断念し、短編小説にシフトする人も多いと思います。まあオチがすぐわかって読みやすいですからね。気持ちはわかりますし、私も一時期そうでした。今でもそのように傾くことはあります。
ただ、長編小説を完全に諦めることにもリスクがある気がします。まあ簡単に言えば、読書体力の低下が懸念されるということです。長編を読むには集中力や根気が必要ですが、短編だとそうした能力を充分使わずに読み終えてしまう可能性がある。よって、短編ばかり読んでいるといずれ長編が読めなくなる…というわけですね。
まあ視力や脳内処理速度の低下により、長編完読が難しくなることはあるでしょう。それでも、「長編を読みたい」という意欲を持ち続けることが必要ではないでしょうか。そうした意欲あってこそ、長編であれ、短編であれ、ともかく読書を続けるための原動力になるのだと。意欲なくして読書なし、というわけです。
※ちなみにゲームの場合だと、時間がかかって気怠いRPGをあえてやってみる、とかですね。かつての私はアドベンチャーゲームはそんなに遊びませんでした。そもそも所持していなかったというのもあるでしょうが、選択肢を選ぶだけでアクションやRPGより刺激が少ないですから、面白さがわからなかったような気がします。しかし、年を取るとRPGのようなレベル上げや探索が面倒になり、選択肢を選ぶだけで進むアドベンチャーゲームにシフトしがちでした。ただ、これも本と同じで、面倒なRPGやシミュレーションを避けるとゲームを楽しむスタミナが鍛えられないので、ちょこちょこでもRPGを遊ぶのは無意味なことではない気がします。選択肢だけ選ぶゲームでも名作はありますが、やはり刺激は少なく、短期的には熱中できても遊びすぎると、長期的にはむしろゲームモチベが停滞する気がします。
まあ、あくまでも主観ですが…。
閑話休題。
あるいは、一旦読書から離れてみるのもひとつの手です。ゲームや旅行、ガーデニングに料理、その他何でも良いですが、別の趣味に興じてみる。そのうち、「本を読みたい」という意欲が湧き起こるだろうから、それまで待つという方法です。いわゆる「読書スランプ」からの脱却術。
他には読書(インプット)から模写(アウトプット)への転換、という手段も考えられます。先日紹介した山本夏彦『完本 文語文』においても、
「十読は一写にしかず」
という言葉が出てきます。
読むだけでは見えてこない作者の文体、リズム、語彙などの技術や工夫。それが模写によって得られるかもしれません。読む本は減ったが、書く本は増えた、ということで新しい時代の扉を開くのも良いでしょう。
5.おわりに
ということで今回は、積読、挫折など、本を読むさいのお悩み相談みたいな記事でした。積読に罪悪を感じる方も多いと思われますが、先述したように積読には効用もあります。決して無意味ではなく、活用次第では興味の幅が広がります。大切なのはやはり、本を読みたいという気持ち、本が好きだという気持ちですね。これさえあれば積読は次第に、健全な形で解消されていくことでしょう。
情報が洪水の如く氾濫する現代だからこそ、考え方の基礎を作る「読書」の価値が高まっていると思います。特に、「右へ倣え」的発想、同調圧力が強い日本では、「思考の枠組み」を作っておくのは重要だと考えます。
このブログでは何度も主張しておりますが、人間は基本的に酒・金・下半身を最優先して行動します。まあこれはテレビや雑誌、職場の会話を見聞きすればすぐにわかることです。思想や哲学がないので、最も安逸な道である「快楽」へ逃げることになる。そして、現代はこの「快楽」の宝庫なので、油断するとすぐに取り込まれます。
そうならないためには、どうすれば良いか。
繰り返しになりますが、思考の枠組みを作ることです。
その方法は読書に限りませんが、読書の強みは、
「概念を使うことで、自分の身体を超えた時間的・空間的経験を味わうことができる」
点にあります。
もう本を読む気力がなくなってしまった…という方も本稿を読み、再びその力を取り戻してくださると幸いです。酒を飲むより本を読もう。
以上です。
ご精読、ありがとうございました。
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