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【朗読原稿】用例に見る辞書編集者の思い〜『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』の比較〜

0.朗読をされる方へ

 本稿は、2021年6月12日にclubhouseで開催されたルーム「【第100回】声優うのちひろが新明解国語辞典の歴史を読む。あの声で。」のために準備した資料を、朗読用に加筆修正したものです。資料の画像ファイルは筆者のTwitterでご覧になれます。clubhuseでの朗読の材料を探している方がいらっしゃいましたので、何かのお役に立てればと思い公開することにしました。お気づきの点などがありましたら、こちらのコメントかTwitterのリプライに書いていただければと思います。

1.はじめに

 『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』はともに三省堂から出版されている小型国語辞典である。学習辞典を除けば、一つの出版社が同型の辞書を複数出すことは稀である。実はこれら二冊の辞書は、一冊の国語辞典を源流にもつ。本稿は『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋、文春文庫。以下『辞書になった男』)を凝縮し、なぜ二種類の辞書を出版するに至ったか、そしてそれぞれの辞書の主幹を務めた山田忠雄・見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)両先生の人間関係を用例などから読み解いていく。適宜、『新明解国語辞典』を『新明解』、『三省堂国語辞典』を『三国(さんこく)』と略す。

2.『新明解』、『三国』の前身『明解国語辞典』

 見坊先生と山田先生は東京帝国大学文学部(現在の東京大学)国文科の同期である。しかし学生時代は、見坊先生は山田先生のことをほとんど意識していなかったようだ。そんな二人を結びつけたのが三省堂から出版された『明解国語辞典』だった。
 時は1939年。三省堂では『小辞林』というポケットサイズの辞書が刊行されていたが、文語体で書かれていたため、これを口語体に改めようという企画が立ちあがった。その中心にいたのが金田一京助先生で、実際の改訂作業に白羽の矢が立ったのが大学院生の見坊先生であった。見坊先生は元の語釈を書き直しただけでなく、新たな語も加えて、ほぼ一年で原稿を完成させてしまった。このとき見坊先生は、岩手の師範学校で教鞭を執っていた山田先生に辞書の編纂を手伝わないかと声をかけた。山田先生はこの誘いを承諾し、二足の草鞋を履くことになった。こうして、実質的に二人の共同作業となった辞書は『明解国語辞典』という名で1943年に発行された。
 見坊先生は『明解国語辞典』の名称について、ご自身の著書の中でこう語っている。

『明解国語辞典』(1943(昭和18)年刊、金田一京助監修)の名称は、『明解漢和辞典』〔三省堂刊〕にならったもので、提唱者は、『明解国語辞典』の共著者・山田忠雄君だった。
『ことば さまざまな出会い』(原文では西暦は漢数字)

 終戦後の1946年、山田先生は日本大学法文学部の助教授として着任し、国語学者そして古典研究の第一人者としての道を歩み始める。見坊先生も1949年に岩手師範学校教授に就任した。同じ頃、山田先生の提案で、【女】を含む多くの語の語釈を改良しようということになり、東京の山田研究室で検討会議が行われた。ここに金田一春彦先生が加わり、『明解国語辞典 改訂版』として1952年に発行された。
 【女】の語釈はどのように変わったのだろうか。初版では次のように説明されている。

おんな【女】ヲンナ(名)。①女性。女子。②めす。③情婦。④女中。
『明解国語辞典 初版』(丸数字は実際は漢数字)

 一方、改訂版では1番目の語釈が詳しくなった。

おんな【女】(ヲンナ)(名)①ひとの中で、にんしん(妊娠)する(能)力のあるもの。女性。女子。②めす。③情婦。④女中。
『明解国語辞典 改訂版』(丸数字は実際は漢数字)

 ちなみに、「妊娠する能力」という説明は「Oxford Languages」を参考にしたそうである。

3.『三省堂国語辞典』の誕生

 『明解国語辞典』は初版、改訂版を合わせて累計600万部におよぶ驚異的な売上を記録した。編集者たちの辞書作りにかける熱意は止まるところを知らなかった。しかし燃えすぎた情熱は、ときに衝突を生む。その一つが、「タラ」の語釈に関する事件だった。(詳細は『明解物語』および「『新明解国語辞典』に「おいしい」と評された食べ物はいくつあるか」「4.幻の語釈」を参照。)

 また、『明解国語辞典』は見出しを「表音式」で書いているという特徴があった。これは見坊先生の提案による。「表音式」とは、耳で聞こえた通りの音をかなで表すことである。例えば、右往左往(うおうさおう)という言葉は「うおさお」と聞こえるので、『明解国語辞典』では聞こえた通りに調べることができた。しかし「現代かなづかい方式」を採用している現在の辞書で引くときは「うおさお」で調べなければいけない。この「表音式」に対して、中学生や学校関係者から投書が寄せられていた。辞書の見出しの通りに答案を書いたのに誤りとされた、という苦情が大半であったという。そこで、中学生用に「現代かなづかい方式」の辞書を急ピッチで作ることになり、見坊先生が中心となって作業が進められた。書名は紆余曲折を経て『三省堂国語辞典』に決まった。1960年のことである。

 三省堂が発行している小冊子「ぶっくれっと」の『三省堂国語辞典』という文章の中で、見坊先生は山田先生の功績を次のように評価している。

どのことばを取り上げるかということでは山田忠雄君が全体をリードした。
「『三省堂国語辞典』」

 『明解国語辞典 改訂版』から10年が経とうとしている。そもそも『明解国語辞典』の“第三版”を目指して編集会議をしていたはずであったのに、いっこうに出版される気配がない。この頃、見坊先生は「ワードハンティング」にのめりこんでいた。生涯に集めた語は145万例にも達する。本稿の趣旨からズレるので「ワードハンティング」の地道な作業の大変さは別の機会にしたいと思うが、『三国』ではかなりあっさりした説明となっている。

ワードハンティング ことばさがし。ことば集め。用例採集。「ワードハンティング50年」
『三国 第四版』(アラビア数字は原文では漢数字)

4.「見坊に事故あり」

 さて『明解国語辞典 改訂版』の改訂作業が滞っている現状を内心不満に思っていたのが山田先生である。インタビューにこう答えている。

彼(見坊)に問題が起こりましてね。彼は語彙採集の手をだんだん広げてまいりました。それが大規模になればなるほど、語釈に取り掛かる時間が無くなった.それで『明解国語辞典』の改訂版を、さらにまた改訂しなければいけない時が来ても、なかなかそれを始めることができない。
『辞書になった男』

 実は山田先生、『明解国語辞典』の編集時から思うところがあったらしい。

見坊の嫌がる表現をとるならば、出発の当初において、私は見坊の“助手”だったのです。
『辞書になった男』
時々は助手としての分を超えないようにという注意を受けたこともありました。
『新明解国語辞典』を語る<上>

 山田先生なりに辞書界に対する問題意識があったのだが、これも機を改めて紹介したい。このままではどちらの辞書も倒れてしまう。山田先生、見坊先生そして三省堂それぞれの言い分はあるだろうが、結果として『新明解』という新たな辞書は山田先生を主幹に据えて出版された。『新明解 初版』の序文「新たなるものを目指して」には、次のように記されている。

 人も知るごとく、本書の前身は「小辞林」の語釈を口語文に書き替えることから出発した。
(中略)
 このたびの脱皮は、執筆陣に新たに柴田を迎えると共に、見坊に事故有り、山田が主幹を代行したことにすべて起因する。言わば、内閣の更迭に伴う諸政の一新であるが、真にこれを変革せしめたものは時運であると言わねばならぬ。
『新明解 初版』序文「新たなるものを目指して」

 「事故」には最もよく使われる「交通事故」の「事故」の他に次のような意味がある。

じこ【事故】②その物事の実施・実現を妨げる都合の悪い事情。
『新明解 初版』(丸数字は実際は漢数字)

 『新明解』の編集は山田先生がすべてを仕切っており、見坊先生は編者に名前があるものの、編集作業に直接関係することはほとんど無かったとのことである。見坊先生がこの序文を初めて目にしたのは1972年1月9日、『新明解』完成の打ち上げパーティーの日であった。『新明解 第四版』で突如出現した「時点」の用例は、この決定的瞬間を記録したかのようである。

じてん【時点】「1月9日の時点では、その事実は判明していなかった」
『新明解 第四版』(アラビア数字は原文では漢数字)

5.それぞれの辞書に見る二人の関係

 一時は理想の辞書を作るために切磋琢磨した山田・見坊両先生は、なんの因果か同じ出版社の別々の辞書を編むことになってしまった。しかし、二人は本当に仲が悪いままだったのだろうか。辞書の記述、そして関連書籍から考察する。まずは『新明解』の「一目」の用例から。

いちもく【一目】「K氏に一目置く〔=(b)自分よりすぐれた者として、K氏に敬意を払う〕」
『新明解 第四版』

 筆者は始め、「K氏」は『新明解』、『三国』の編者である金田一春彦先生を指していると思っていた。『新明解』の語釈や用例には、『三国』および見坊先生に対するライバル心が見え隠れしていたからである。しかし、『新明解 第三版』の「あとがき」および「実に」の用例の変化を知り、「K氏」=見坊先生であると思い至った。『新明解 第三版』の「あとがき」は次の文章から始まる。

成立事情 本書は、昭和18年5月初刊の「明解国語辞典」を承(う)け、昭和47年1月 主幹 山田の新たな構想の下に脱皮を遂げた再生の書である。
 旧著における見坊の足跡(そくせき)は極めて大きい。現代語を主とする今日の小型国語辞典の定型は実に彼の創始する所である。
『新明解 第三版』「あとがき」(ルビは引用者による。アラビア数字は原文では漢数字)

 このように見坊先生が現在の辞書に与えた影響を称えている。

 次に「実に」の用例がどのように変わったかを見てみよう。『新明解 初版』では次のように書かれている。

じつに【実に】「助手の職にあること実に17年〔=驚くべきことには17年の長きにわたった。がまんさせる方もさせる方だが、がまんする方もする方だ、という感慨が含まれている〕」
『新明解 初版』(アラビア数字は原文では漢数字)

 「私は見坊の”助手”だったのです」という発言をふまえると、感慨深いものがある。一方、『新明解 第四版』では夏目漱石の『坊っちゃん』を引用した例が使われている。

じつに【実に】「この良友を失うのは実に自分に取って大なる不幸であるとまで云った」
『新明解 第四版』

 『新明解 第四版』が出版されたときは見坊先生はご健在である。ポイントは「助手」という単語が消えたということだと考える。

 一方の『三国』はどうだろうか。日常ではあまり使わない言葉だが、「畏友」の語釈を紹介したい。

いゆう【畏友】尊敬している友人。
『三国 第四版』

 これは少し補足が必要だろう。『三国 第三版』出版の翌年、見坊先生はこれまでの辞書人生を振り返る本を上梓した。その中で、「主食」という言葉に触れてこう述べている。

 あるとき、あるひとりの国語専門家がそのことに気がつくまでは、「主食」と国語辞書とは無縁であった。
 「主食」の不在に気がついたのは畏友山田忠雄君である。
『ことば さまざまな出会い』

 「事故有り」とされて、ある種一方的に主幹の座を追われた形になってしまった見坊先生であるが、山田先生を「尊敬している友人」と考えていた。また同じ頃、三省堂の辞書編集部長と二人きりの席で「私は、山田君を許します」と言われたとのことである。最後にもう一つ、見坊先生が山田先生のことを気にかけていたことが窺える用例を紹介したい。

(接助)④話題をもちだすときに使う。「山田といえば、このごろあわないな」
『三国 第四版』

6.おわりに

 以上、『明解国語辞典』から『新明解』、『三国』に至る経緯を、それぞれの辞書の記述、関連書籍およびインタビューから読み解いてきた。辞書の用例はありきたりで面白くないイメージがあるかもしれないが、編集者のこだわりを感じていただければ幸いである。他の辞書の語釈や用例もそのような視点で読めば、その辞書の個性や独自性が発見できるかもしれない。

 一貫性を持たせるために、見坊先生のワードハンティングについてと、山田先生・見坊先生それぞれの辞書観を深掘りすることができなかった。これについてはまた別の機会に紹介したい。その他泣く泣くカットしたエピソードも多々ある。ぜひ『辞書になった男』を読んでいただきたい。

参考資料

『明解國語辭典』三省堂、1943年(第10刷、1947年4月5日発行)
『明解国語辞典 改訂版』三省堂、1952年(第10刷、1953年11月25日発行)
『三省堂国語辞典 初版』三省堂、1960年(新装版 第1刷、1968年発行;第20刷、1971年1月20日発行)
『三省堂国語辞典 第四版』三省堂、1992年(小型版 第13刷、1996年2月10日発行)
『新明解国語辞典 初版』三省堂、1972年(特製版 第1刷、1972年4月1日発行)
『新明解国語辞典 第三版』三省堂、1981年(第41刷、1986年9月1日発行)
『新明解国語辞典 第四版』三省堂、1989年(第36刷、1997年1月20日発行)
見坊豪紀「『三省堂国語辞典』」三省堂「ぶっくれっと」19号(1977年2月)
見坊豪紀『ことば さまざまな出会い』三省堂、1983年
佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』文藝春秋、2014年(文春文庫、2016年)Amazon
柴田武監修、武藤康史編『明解物語』三省堂、2001年
山田忠雄「『新明解国語辞典』を語る<上>」三省堂「ぶっくれっと」83号(1989年11月)

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