政治家は「最後の職業」か。
政治家は「最後の職業」かということで、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を読んだのですが、あまり得るものはありませんでした。やっぱり、最近の読みやすい文体の本に慣れてしまって、内容が読みづらいというのもありますね。「古典は読むな。読んだら疲れる」という、私の出身大学の「カリスマ」教授の言葉があてはまる本だと思いました。印象に残ったところだけ、かいつまんで、ページ順ではなく、順不同で、論評したいと思います。しかし、ブログで抜粋してコメントしてるうちに、なんか読めてきたかもしれませんね。これも、ブログによるアウトプットのプラス面ですね。ページ順ではなく、順不同でコメントしていきますので、よろしくお願いします。何回か、読み込むと、名著かもしれないと思いました。どういう案件が政治課題として上がり、解決されていくのかということが見える可能性がある本かもしれません。「政治」って、そういうことだったのかとわかる可能性がある本かもしれません。全体的に、ほとんどの人がその傘下で働くことになる経営というか、経営学も射程に入れてるのがいいですよね。1920年くらいに行われた講演ですから、現代においての戦後は、こういうので進めて行きますよという中国の頭いいスタッフが作った預言書みたいな本になっていますよね。現代では、これを行政学や政治学や行政法や経営学で、さらに専門分化が進んで、発展してますよね。論文もたくさん量産されていますよね。
まあ、そういうこともあるかもしれませんね。特に、脚色なく、血統も良くて、伝統もある人で、カリスマな人・・・というのは、存在するかもしれませんよね。そういう一定の尊敬を集める人物が、官民問わず、アイディアを方々に出し、各種の専門家が、それを現実化し、一般の人がそれを享受し、楽しむというのは、とても良いことでしょうね。
これは、主に、国家公務員のキャリアの人を念頭に置いたコメントですよね。国家公務員のキャリアの人って、まったく、ヴェーバーのコメントの通りだとは思いますよね。スタッフの優秀性は、ヴェーバーも期待してるところではあるし、アメリカ留学を2個行けたりする人があるというのはそういうことの現れだとも思えます。また、「身分的な誇り」というのも、将来の天下りなどを期待して、現役スタッフ時代の士気の高さに期待してもいるということなんでしょう。しかし、最近は、民間側が複雑に専門分化が進んで、上の省庁で、業務を迅速につかまえようとしても、難しくなって来てて、ヴェーバーの言う、この指摘は、当たらなくなってきているところもありますよね。天下り先も減ってきたし、中央省庁の旧態依然としたやり方が変容(中央省庁の業務改革が必要)を求めれれていて、キャリア制度とかも曲がり角を迎えてきていると思いますね。そういう、いわゆる行政官も、カリスマ的指導者が出てきた場合、その人が出すアイディアが、技術的、もしくは国際関係の比較などから、実現可能かどうかを検討するスタッフに過ぎないところもありますよね。これは、当note塾でも、アメブロ塾でも、指摘しましたが、制度面でも、生活面でも、ヨーロッパと比較すると、日本は、劣等というか低俗なマニュアルを持たされていて、それを変えることができるかどうかを検討するスタッフではありますよね。かなり昔に出版された岩波文庫を足がかりに、以下の私の記事でも検討した話ですが、そういうのを変えられるかどうかですよね。モノは、いっぱいあるけど、幸せを感じられない、豊かさを感じられないマニュアルを変えることができるかどうかですよね。
これは、まあ中国なんかも、そうなんだろうね。うちの大学に留学に来てた中国人留学生が言ってたんだけど、「中国にも色々と問題がある」と、現状と課題があると言っていて、各国とも、そういう風に、行政課題を政治が解決していく役回りを担っている、政治は、ひとつのネタだし、ショーだし、エンターテイメントだということなんでしょうね。上記に引用した、当note塾での記事みたいなことが、政治課題となり、日本が、桃源郷になれるかということですよね。日本は、ヨーロッパのNGやらないと、白斑症の遺伝子を持っていて、生来的に病気とも言っても良い、ヨーロッパの白人が幸せを感じられないんだという程度の役回りを、なんで人種的に優越している日本人がやらなくちゃいけないんだということですよね。ヨーロッパは、ヨコヨコで、日本は、川島隆太教授を筆頭とする脳科学というのが出てきて、脳科学先進国ということで、脳科学ではいちばんのマニュアルを制度面でも、生活面でも、就労面でも、持たせて欲しいということですよね。
政治にコミットすると、社会の何から何まで規定している行政機関にアクセスすることが可能となり、いわゆる「おいしい思い」ができるということなんでしょうか。しかし、最近では、脳科学の時代になり、早い段階から、この子にはこういう仕事をやらせるというセレクションが進んでおり、政治が行政機関に「こうしてくれ」と言っても、変わらないものが多く、川島隆太教授の脳科学の時代に入った現在では、こうしたヴェーバーが言う「政治」の定義も、時代に応じた、変容が求められているのではないかと思います。特に、日本では脳科学先進国として、その要請は大きいと思いますね。じゃあ、どう政治を定義するかということですが、脳科学に基づいた行政や脳科学に基づいた政治指導者のあり方ということじゃないでしょうか。
なるほどねえ。実際の今行われている学問のレベルに引き落とすと、行政学と行政法の2つが必要ということですね。なるほど・・・。
自民党や各種政党の「幹事長」なんていうポストも、ヴェーバーのこの本から出てきているものなんですね。
なるほど。しかし、日本では、利害関係というのが政治課題になってないですよね。ほとんど、自民党の一党独裁が続いているし、利害関係者を政治や政権交代の大なたに乗せることはないですよね。もし、「利害得失」を政治に乗せてしまうと、社会が大混乱になってしまいますよね。日本は、戦前は、急進的なもので行ってしまって、大失敗したので、戦後は、保守にすると決めたわけでよね。政治に、そこまでの正当性の根拠を求めないというのが、日本流なのかもしれませんよね。それは白斑症の遺伝子を持っている白人の欧米の仕事で、日本は、「摂政」とかいう方が、合っているのかもしれませんよね。日本は、摂政と行政機関の接続というのがいいですよね。関西流で、ぼやかして進むというのがいいんでしょうね。摂政も政治家の1つではあるでしょうけどね。日本なんか、特に行政の緻密さが求められているので、政治も行政も、慎重に、慎重にという少しずつ進む、政治は、「保守」、行政は、「インクリメンタリズム」アプローチじゃないと、いきなりハシゴをはずされたら危険というのはあるでしょうが、中国側も、日本の「摂政」に恥をかかせるようなことをするかなとは思いますけどね。
日本もそうですけど、中国が何でも決めてくるので、中国の政治家も、日本の政治家も、欧米の政治家も、こういう資質が求められているということなんでしょうね。現代社会においては、ミニ政治家とも言える、中央省庁のキャリア行政官にも、こういう資質は求められているでしょうね。
さらに、元・外務省の行政官の佐藤優さんのウェーバーの解説書が新書で出ていたので、その本も購入して、読んでみることにしました。佐藤優さんは、埼玉県立浦和高校出身で、浦高の持ちキャラの1つである、いちばん下に落ちても、頭の良さ1本でのし上がってくるというキャラを体現されたような方で、同じ学区出身の私は、大変、親近感を覚えている作家の1人です。浦高らしく、すごく頭が良い人で、すごく尊敬している作家です。
本書は、現実の政治の論点として、日本の政治に登場したものをウェーバーの『職業としての政治』と重ねながら、論評したもので、外務省の行政官としての経験もある、佐藤優さんの博識で披露された、地理的な豆知識も非常に参考になります。
だから、日本の政治も、基本的には、これに基づいてやってくれという指示が中国から来るんでしょうね。だから、中国が言う、その伝説の人物の生き生きとした判断や行動や思考力が、ヴィヴィットに出てこないのね。あくまで、日本は、中国の属国のサブキャラクターの1つの国に過ぎないから、そういう「本に基づく」ネタ出しを日本の官僚がするんでしょうね。ウェーバーの『職業としての政治』は、こういう解説本も含めて、何回も読んだ方がいいんでしょうね。
そうかなあ。なんか社会科学の古典って、ウソくさいところがありますよね。人文科学の古典と比べると・・・。どちらが、ニワトリで、どちらがタマゴか、みたいな話ですよね。法律で言うと、刑法、行政法で言うと、行政代執行法みたいなことを言ってるんでしょうかね。最近は、テレビなどのマスメディアの時代ですから、「国家の本質は、エンターテイメント」みたいな考え方でも良いと思うんですよね。北朝鮮の「将軍様」一辺倒も、ひとつのエンターテイメントの一態様ではありますよね。韓流ドラマなんかも、エンターテイメントですよね。
世界各国、色は違うけど、同じことを流行らせてるですね。日本は、かなりいいものを流行らせてもらえてるということですよね。白斑症の遺伝子を持つ人種と違って、感性に富む、日本人のココロを磨くには、すごく良い素材ですよね。
日本は、理工学や医学とかで、すごく貢献してるからね。しかも、最近は、脳科学とかでも貢献し始めた。イスラム圏の人は、白斑症の遺伝子を持ってるだけで、生産に携わってないから、中国から、戦争みたいなネタにされちゃうわけね。日本に農林水産品の生産・輸出や工業製品の輸出に携わっている仕事をしている東南アジアなどは、有利ということですよね。しっかり、働いて、世界経済に貢献しているから・・・ということになりますよね。外務行政官らしい知見の披露ですよね。これからは、アジアの時代という時代のタームに入ったかもしれませんね。それと比べると、戦争になってしまったウクライナは、小麦やひまわり油といった農産品で、ヨーロッパへ輸出し、貢献しているわけですが、白人への貢献なので(日本人などへの貢献ではない)、低く見られるので、戦争というネタにされてしまうのかもしれません。
やっぱりそうなんですね。外務に限らず、各官庁とも、それでネタを作ってるということなんでしょうね。「そこからは外さないでくれ」と中国側から言われちゃうんでしょうね。『職業としての政治』の原書と、この佐藤優さんの解説本は何回も吟味しても、良い本かもしれませんね。
この2冊の本を読んで思ったことなんですけど、中国の1千年単位の工程表に基づいて、中国のスタッフが渾身の力を込めて、白人に持たせた政治学や思想史の本に基づいて、各国政府の官僚が動いているだけで、中国が言う、その伝説の人物のヴィヴィットな判断や行動や思考力や考え方が、反映されたものではないということは間違いなく言えると思います。古典って、学生時代に主要な古典は読んでしまいましたが、社会経験を経て、これからも、主要な古典は、何回も読んでいこうと思います。しかし、古典って、唐突な論理の飛躍があるところもあるし、すべて、法学(公法と私法)への準備みたいなところがありますよね。だから、民法みたいなものが認められましたなんていうのも、相当な「民(たみ)」にとって、福音となる事象なわけですけど、日本民法が成立したときも、「民法出でて忠孝滅ぶ」という穂積八束の論文が出たりしたそうですが、「わっ、やった」という歓声は、明治時代の日本国民からは、あまり上がらなかったというか、そういう歓声を上げる知識も無かったというところでしょうか。古典は、「ここに論理の飛躍がある」とか「ここがおかしい」とか、「古典つぶし」みたいな書評をあげても、面白いかもしれません。この2冊の本を読んでみて思ったんですけど、日本ローカルの本ですが、そういう視点で、福澤諭吉の『文明論之概略』と丸山真男先生の『「文明論之概略」を読む』を再々読してみても、いいかもしれないと思いました。
アメブロでも、違う論調で論評してみたので、ぜひ、ご高覧ください。