「八百万の原則」:日本的多様性の可能性
多様性の時代と言われる現代。
しかし組織の「多様性」を表現するために女性・外国人・障害者の雇用率が使われることに、なんだか少しモヤモヤしてしまう。
あるいは、自分が理解が出来ない人の思考を「多様性」という言葉で片付けているのを見る度に「多様性ってこういうことだっけ?」と違和感を感じてしまうのは何故なのか。
また感覚的に欧米の「多様性」と日本の「多様性」は何だか違う気がする。
事実として世界標準からすると、日本は多様性後進国の様な言われ方をする。それは間違いではないかもしれないが、個人として考えると正解でもない気がした。
そこで仮に、
「日本的な多様性の強み」があると仮定して、日本式の人的資本経営においての多様性のあるべき状態を「八百万(よろず)の原則」として名付けて、思考してみた。
◆八百万の原則とは
個人の多様な能力に加えて、個人が信じる多様な偏愛やこだわりを認識し、個人の中の多様性を調和させる事で無限の創造性を発揮させること。また、チームにおいては個人がそれぞれに持つ多様性を認めた上で、役割に応じた行動を取ることができる柔軟性を発揮させることで全体を調和させる日本的な多様性の強さだと定義した。
アニメや漫画文化は日本の持つ創造性の最たるものであるのは間違いないし、実態は色々あるが、海外の人が日本に来た時に感じる「礼儀正しい日本のイメージ」は、柔軟性を持って役割行動を取れる調和力によるものだと考えられる。
日本に古来からある「八百万の神」の概念は、欧米の一神教的な宗教観とは異なり、あらゆる存在に神が宿るというもの。山、川、木など自然界に加え、人間や人工物にまで神を見出すこの多神教的な考え方は、日本人が持つ「自然への畏敬」ともつながり、異なる価値観の共存をも許容する柔軟性を持つ。
ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」に数えきれない姿形が異なる神々が集まってくる姿が描かれているが、この「八百万の神」の精神は、多様性の基盤となる「調和」と「包摂」の象徴でもあり、日本特有の多様性観を示すものといえる。
そして現在では宗教的な考えはほぼ無くなって、文化として溶け込み、正月、クリスマス、ハロウィンなどのイベントや「推し活」の様なそれぞれが好きなものへの信仰心としてあらわれていると感じる。
これらは日本的ではあるが、決して日本人特有のものではない。グローバル化で成功している企業やサービスが固有の創造性による強みを持ちながら、各国での「ローカライズ」により各地域でも受け入れられる様に、違いを認めて調和させる際に八百万(よろず)の強みが使われているのではないだろうか。
◆日本と欧米の多様性の考え方に対する考察
日本と欧米では、多様性への考え方や価値観の背景に根本的な違いがある。欧米が「個人の自由」と「人種的・宗教的多様性」を重視してきたのに対し、日本では「和を重んじる」姿勢があり、異なる存在が共存し調和することが理想とされる。
欧米の多様性が「権利と自由の獲得」に基づくのに対して、日本の多様性は、調和をもとにした「共存」を重視している点に違いがある。
・日本と欧米の多様性の歴史
人的資本経営の文脈で語られる欧米の「多様性」のキーワードはダイバーシティ&インクルージョン(多様性と包括性)そしてそこにイクイティ(公平性)を加えた「DEI」と表現される。
多様性、包括性、公平性という考えは、一見すると日本の調和をもとにした共存という考えに近い様にも感じるが、欧米の場合は人種、国籍、民族、宗教などの違いを前提に、個人や集団が自由を獲得してきた歴史が前提にある。
黒人差別に対するキング牧師らの公民権運動から1964年に公民権法が成立し、人種差別への反対という考えから始まり、当初は訴訟を避けるためという守り的な要素が強かったが、次第に企業のブランディング強化やビジネスのグローバル化という経営戦略の攻め的な要素としてダイバーシティーが語られる様になっていく。
一方で日本で始まったダイバーシティの考えは、日本の古来から続く偏見に対する問題視や、国際標準に意識を変えないといけないという危機感から生まれたものだ。男女の雇用差別が問題になっていた時代。1985年に「男女雇用機会均等法」が制定されて男女の雇用の差が禁止され、さらには、1990年代からの「失われた30年」と言われる景気低迷による危機感により、日本の価値観が揺らいだことで欧米的な成功例や考え方を有り難る風潮が出てくる中で多様性の必要性が叫ばれてきた。
しかし日本国内市場の中での競い合いを行う中でそれらがガラパゴス化していき、ITの進化でより情報量が増え複雑化する中で隣の芝を見ながら共存してきたため、多くの場合、日本的な多様性の強みは発揮されないでいるのではないだろうか。
◆DEIとYOROZU
恐らく本当の意味で「多様性」が実現した世界では、「多様性」という言葉自体が使われず「個人」の特性として捉え、狭い範囲のカテゴライズに押し込めるのではなく、違いを当たり前とした上で調和が図られるのではないだろうか。だが現実にはあと少なくとも数十年は難しいだろう。
SDGs同様に大きな問題で解決が難しいからこそ、理想的な姿として「DEI」多様性、包括性、公平性はテーマとなり続ける。日本に関わらず、
世界が交わり続ける中で無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)を、取り除き、対話による理解をしていくことが求められていくと思うが、AIにより言語の壁や知識の壁が無くなった時にこれは加速するかもしれない。
大事なのは、無限とも言える多様性を理解し受け入れた上で、それらを調和させていく力だ。
無限性と調和性(インフィニティー&ハーモニー)、これが日本的な多様性の強み「YOROZU」として世界のテーマとなる可能性もあるかもしれない。
・現在の日本の多様性の良い点と悪い点
日本的な多様性の良い点は、異なる価値観や存在が調和し、争いを避ける「和の精神」にある。この考えは、組織や地域社会においても、相手を尊重し合いながら協力する姿勢を育む。
しかし、その一方で多様な存在の中の争いを避ける為に同質性が重視されすぎてしまい、異質な存在や意見が排除されやすいという弊害も見られる。結果として、独創的な意見が生かされにくく、多様性が成長しにくい面がある。
・日本的な多様性の発展方法
「八百万の原則」の概念をもとに、日本社会の多様性の理解をさらに発展させるためには、異なる価値観や背景を排除せず、共存させること(包摂と調和)が重要である。意識的にも無意識的にも、自分が理解出来ない人材や国籍の違いを「外」と「内」に分けて考えてないだろうか?
民族の違いが少ない日本においては多様性を内側に入れる意識を持ち、当たり前にしていくことが必要だ。
例えば、企業が多様な人材の個性を尊重する働き方を促進したり、教育現場で多文化共生の考え方を積極的に取り入れたりすることで、八百万(YOROZU)が持つ「包摂と調和」の精神が現代における新しい多様性発展のモデルとなり得る。
◆日本の強みと課題
改めて「八百万の原則」による日本的な多様性の強さとは、個人の中の多様性を調和させる事で創造性を発揮すること。そして、個人がそれぞれに持つ多様性を認めた上で、役割に応じた行動を取ることができる柔軟性を発揮する事で全体を調和させる強さだと定義した。そして日本は本来この力を持っているはずである。
しかし先に述べた日本と欧米の歴史の違いや、そこに対する日本における教育の歴史から本来持つ力が発揮されず、創造性は一部の選ばれし人のものだと考えてしまっている節がある。また個人や社会の積極的な調和ではなく、個人の「思いやり」に依存する形で、異なるものを受け入れようというような教育が行われていることも問題点として考えられる。どんなに多様性が大事で差別的思考は良くないと考えていたとしても、各個人や社会の意識を変えないと行動変容には繋がらない。
そこから抜け出すには、各個人が歴史を知り、自身が個人の中にある多様性をメタ認知した上で、改めて日本的な多様性の強みを発揮しようとしていくことが、これからの課題ではないだろうか。
己を知り、多様性を知るためにまずは人間は何のために学ぶのか?を各個人が考えていくことがとても重要である。
※参考:「優しさ・思いやり」が強調される日本の人権教育、世界と大きくズレている深刻(東洋経済)
※参考:教育の歴史 ー人間は何のために学ぶのか?(COTEN RADIO)
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次回:リスキリングと「漫画の原則」
リスキリングとは、「新しい職業に就くために、あるいは、今の職業で必 要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、 必要なスキルを獲得する/させること」だとされる。近年ではVUCAと言われる様に変化が速く、先行きが不透明で、将来の予測な困難な状態に晒されている。
そのような中で個人的な観点でリスキリングの必要性を感じ、会社に言われて勉強するのではなく、自ら学んでいくためには日本の「漫画」の力は非常に有効かもしれない。日本の最大の強みかもしれない「MANGA」の力とは何かを思考していく。
次回予告「漫画の原則」