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【盗作かどうかは人望次第?!】著作権よりも気を付けたい「モラル」のはなし(2018年2月号特集)


※本記事は2018年2月号に掲載した栗原裕一郎先生のインタビュー記事です。

盗作と言われるかどうかは人柄や人望の問題になってくる

――昔は事実を書いたノンフィクションには著作権がないと思われていた?

 今でも創作物と事実の区別がついていない人って多いですよね。糾弾する側が盗作だと騒いでいても、事実だけを引いている場合も少なくない。その区分けができていない。史実なんかは別に資料から引っ張ってきても問題ないわけです。資料自体に著作権がない場合もあって、そういうものなら丸写ししてもかまわないわけです。

――一文だけなら同じになってしまう可能性もあるわけですよね。

 参照している資料が同じだと似てしまうことは多いですよね。事実を参照すれば同じになるのがむしろ当然で、逆に違っていたら困る(笑)。事実は誰が言っても事実なわけで、それを使うなと言ったらものが書けなくなってしまう。

――盗作疑惑を著作権侵害で訴えてクロになる可能性は?

 盗作騒動というのはモラルとか作法の問題であることが多い。作家としてこういう行為が許されるのかという感じの糾弾のされ方なので、実は著作権法はあまり関係がなかったりする。文芸で著作権侵害裁判に発展して有罪になったケースというのはごく少ないです。掲示板への投稿を自著にそのまま載せてアウトとか、そういう事件はありましたが。

――そうなると盗作かどうかは、あの人はいいけど、この人はだめなど気分の問題になってくる?

 先行作品から引っ張ってきたフレーズを忍ばせるというようなことは割とよくやられます。文学の潮流とか方法論、著作権的な判断が絡んでくるので是非は一概には言えない。言えないんだけど、糾弾される人とされない人というのがいる。その差はもう人柄とか人望とか世評という話になってくる気がします。

以前は、創作以外の文章は、一律に単なる資料と見られていた

――ノンフィクションからの借用という話に戻りますが。

 72年に、丹羽文雄が『親鸞』で学術書から盗用したとされた事件がありました。このとき、丹羽文雄はこう弁明しました。

「文学書など創作の世界から転載すれば盗作などの問題になろうが、小説の中に学術書を引用するのは文学者の間で慣習化している」

(『朝日新聞』72年6月20日付夕刊)

 むろん方々から非難されましたが、当時は創作以外のもの、ノンフィクションのたぐいは、一律に単なる資料としか見ないのを「常識」とする人もいたということですね。

――事実やデータは資料ですが、それを書いた文章には創作性があるというわけですね。

 ノンフィクションでも、文章は当然、表現です。ただ難しいのは、文章であれば表現として創作性があるとは言いきれないこと。

――具体的な事件はありますか。 

 08年に、松沢成文前神奈川県知事の著作『破天荒力 箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち』に、山口由美『箱根富士屋ホテル物語』に類似した表現があると訴えられた事件がありました。特に問題にされたのは次の類似です。

「彼は、富士屋ホテルと結婚したようなものだったのかもしれない」

(『破天荒力』)

「正造が結婚したのは最初から孝子というより富士屋ホテルだったのかもしれない」

(『箱根富士屋ホテル物語』)

 かなり似た文章ですが、控訴審で「表現上の創作性がない部分で共通点があるにすぎない」とされ、最高裁でも棄却されて山口の敗訴が確定しました。つまり、この箇所で類似しているのは歴史的事実にすぎず、表現ではないと判決されたわけです。

偶然似てしまうのは仕方ない。部分なら修正すればいい

――文学賞の場合、盗作のチェックはするものですか。

 僕も下読みをやっているんですが、応募原稿のタイミングで判断するのは難しいですね。よほど古典的な名作とかでないかぎり気づかないでしょう。たとえばラノベから引き写されていても読んでいないのでわからない。編集部員もせいぜい5人くらいでしょうから、チェックは物理的に無理だと思います。

――受賞したあとに盗作と言われてしまったら?

 偶然の一致なら裁判になっても負けないと思うんですよ。著作権侵害の要件は、創作性と依拠性の有無なので、偶然の一致だったら、どちらについてもクロと判定されることはまず考えられない。ただ「似ている」と言われてしまった時点で盗作疑惑は発生するので、そこが難しいところです。

――山本有三の『真実一路』の冒頭に「真実一路の道なれど、真実、鈴ふり、思い出す」という詩があり、あとで北原白秋の詩だと気づいたという逸話があります。

 その程度だったら、まず謝罪して、作者名を添えて引用として処理し直すといった手続きをきちんとすれば、大きな問題にはならないと思います。結局、人柄と人望の問題ですから(笑)。

創作者も気になる3つの盗作騒動

大藪春彦「街が眠る時」

 フランク・ケーン『特ダネは俺に任せろ』をネタにしたと本人も認めた。翻案と盗作の中間ぐらいの微妙なリメイク作品。

井伏鱒二『黒い雨』

 88年に元ネタの被爆日記があることが判明。被爆当日の様子はほぼ忠実に小説に活用されていた。盗作か資料かで論争に。

田口ランディ『アンテナ』

 「知人のWEB日記から無断使用」という報道があった。インターネットにある文章からの転用が問題になった象徴的な騒動。

もしも元ネタにした本があったら?

 この件について栗原裕一郎さんに聞いた。
「62年に、〈宮原昭夫の芥川賞受賞作『誰かが触った』は、鈴木敏子の手記『らい学級の記録』の借物小説〉という報道がありました。実際に依拠していて、宮原は鈴木に許諾も取っていたのですが、参考文献に挙げられておらず、そのことが鈴木の気分を害し問題となってしまったのです。
 宮原の事件は、編集者や出版社が参考文献を載せるのを嫌がるという慣習が生んだ悲劇でしたが、現在はそんなことはありません。参考にした作品や資料がある場合、応募の時点で、原稿に参考文献を付しておいてもいいと思います。

栗原裕一郎
65年、神奈川県生まれ。東京大学理科Ⅰ類除籍。企画・共著に『「腐っても」文学』『音楽誌が書かないJポップ批評』『禁煙ファシズムと戦う』ほか多数。

特集「どこまでが盗作か」
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※本記事は「公募ガイド2018年2月号」の記事を再掲載したものです。

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