【文学賞っていつからあるの?】文芸公募100年史Part6
VOL.6 「萬朝報」懸賞小説
今回は、日本初の推理小説を書いた黒岩涙香が創刊させた「萬朝報」の懸賞小説を取り上げる。この賞は30年も続いた懸賞公募で、入選者にはのちの有名人がごろごろいる!
明治30年、週に1回の懸賞小説が登場!
かつて萬朝報という新聞があった。「多くのことを朝に報じる」という意味にも思えるが、「よろずに重宝する」のダジャレだそうだ。
この新聞はゴシップ報道の先駆的な新聞であり、有名人は恐れをなしていたと言う。今でいう文春砲みたいなものか。モットーは「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」。アメリカのペニーペーパーのような廉価な大衆紙であり、判型はタブロイド判だった。雰囲気からすると昔あった「夕刊フジ」などの夕刊紙が近いかもしれない。
創刊は明治25年、社長は黒岩涙香だ。涙香は萬朝報創刊以前、エミール・ガボリオやデュ・ボアゴベといったフランス探偵小説を英訳版から翻案して人気となっていた。翻案とは逐語訳ではなく、ストーリーをざっと理解したらあとは自分で書くという超訳であり、登場人物名も日本人名にするなど読みやすく大胆に書き替えた。半分創作だが、その流れで明治22年(1889年)、涙香はオリジナルの小説も書く。それが日本初の探偵小説「無惨」だ。
「萬朝報」懸賞小説は創刊から5年後の明治30年に創設されている。募集は週に1回、賞金は10円で、選考委員はヴェルヌやユーゴーを訳し、翻訳王と言われた森田思軒ほか。思軒は「萬朝報」懸賞小説が創設される前年の明治29年、黒岩涙香によって招かれ、高待遇で朝報社に入社したが、明治30年には病死している。選考は後任の編集責任者が引き継いだと見られる。ちなみに明治30年には内村鑑三が、翌明治31年には幸徳秋水が入社しているが、彼らは論客であり、懸賞小説とは関わってはなさそうだ。
若き荷風先生も手当たり次第に投稿⁉
「萬朝報」懸賞小説は明治30年に始まり、一時中断するが、最終的には大正13年まで公募されている。その数、なんと1720回を数える。つまり、入選者が1720人もいるということになり、その中にはのちに大成した人がごろごろいる。毎回の応募者数まではわからないが、「公募の成果は応募総数に比例する」という公募の法則から考えると、それなりの応募数があったと推測される。涙香の知名度、大衆紙というのも応募多数の一因だろう。
歴代入選者を頭から見ていくと、まず目に留まるのが永井荷風だ。明治32年の6月に「花籠」、8月には「かたわれ月」で入選している。
この連載のVOL.4で、〈明治33年、荷風は春陽堂の「新小説」懸賞小説には入選し、明治35年の金港堂「文芸界」長編小説では落選した。〉と記したが、これらより先に「萬朝報」懸賞小説で2回入選している。
明治32年といえば荷風は20歳前後。未来の作家を目指し、あちこちの懸賞小説に手あたり次第に投稿する修業時代だった。
明治38年2月には、のちに自然主義文学の作家になる中村星湖が「御料林」で入選し、以降、明治39年5月までの1年強で5回入選している。
星湖は萬朝報のほか、明治39年には「新小説」懸賞小説で「盲巡行」が1等になり、明治40年には「早稲田文学」の懸賞長編小説に「少年行」が入選している。これらは早稲田大学在学中に応募したもの。小説の腕が磨け、賞金までもらえるのだから、苦学生が多かった明治時代の大学生は挑戦意欲を鼓舞されただろう。
谷崎潤一郎の弟がいたり、西洋画家の中川画伯がいたり
明治41年9月には、広津和郎が「微笑」で入選している。以降、確認できるだけで8回入選しているが、毎回筆名を変え、森とよ子、永田霊水、あい子、竹女、白金竹子など女性名だ。なぜかは不明だが、投稿は内緒でやっていたのかもしれない。
このとき、広津は17歳。麻布中学に通う学生だった。入学時から病弱で、たびたび欠席していたが、作家だった父親の影響か、投稿に興味を持ち、14歳のときに雑誌「女子文壇」に「不眠の夜」という短文を投稿し、特別賞を得ている。
ちなみに父親の柳浪の弟子に永井荷風がいた。広津は「萬朝報」懸賞小説の結果を見て、「永井さんが入選している。ぼくもやってみたい」なんて影響されたのかもしれない。
明治43年7月の入選者には谷崎精二の名前がある。もしかして谷崎潤一郎の筆名かと思ったが、検索してみたら谷崎潤一郎の弟だった。
明治45年7月の入選者には中川一政とある。西洋画家の中川画伯と同姓同名だが、さすがに別人だろうと思いつつ、中川画伯の年譜を調べてみたところ、〈18歳、「萬朝報」の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される。19歳 、「萬朝報」の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される。〉とあって二度見してしまった。若き中川画伯は作家志望だったようで、今風に言うなら二刀流だろうか。
のちの童話作家も、新感覚派の旗手も常連!
まだまだ大物がいる。
大正元年には獅子文六が2回、入選している。年は弱冠二十歳。ユーモア小説や長編小説を書き、文学座を創立させるずっと前のことだ。
大正3年9月には、のちに『龍の目の涙』や『泣いた赤おに』などの童話を書き、日本のアンデルセンと呼ばれる浜田広介が入選し、以降、大正6年9月までの3年間に計5回入選している。作風はわからないが、「零落」「影」「冬の小太郎」「帰郷」「自画像」のタイトルからすると、やはり童話風なのかなという気もする。このとき、浜田広介は20代前半で、「萬朝報」以外では「大阪朝日新聞」の懸賞小説で2回、入選している。
大正6年10月には、横光利一が「犯罪」で入選している。横光利一は川端康成とともに新感覚派を代表する作家で、『純粋小説論』の作者だ。横光はこのとき、20歳だが、「萬朝報」以外にも、「文章世界」「時事新報」などに投稿している。
大正9年12月には島木健作が「章三の叔父」で入選している。島木健作は『癩』『盲目』『再建』などで知られる転向文学の作家だ。
応募者が若い! みんな10代、20代!
大正9年11月と大正10年1月には、宇野千代が入選している。宇野千代は大正10年に「時事新報」懸賞短編小説で「脂粉の顔」が1等になってデビューするが、その前に「萬朝報」懸賞小説でも入選を果たしていた。
ちなみに「時事新報」懸賞短編小説の2等は尾崎士郎。千代は生涯に4回結婚するが、尾崎士郎はそのうちの一人だ。公募が取り持つ縁というやつか
「萬朝報」懸賞小説の入選者は若い。みんな10代、20代だ。これは同賞が若い人向けの公募だったからではなく、近代文学創成期の作家自体がみんな若いからだ。作品の発表年から文豪のデビュー年齢を割り出せば、森鷗外『舞姫』28歳、志賀直哉『或る朝』25歳、谷崎潤一郎『刺青』24歳、武者小路実篤『お目出たき人』26歳である。
当然、作家志望者はもっと若く、彼らが腕試しをした懸賞小説応募者の平均年齢は20歳前後だったろう。しかも全員がプロ志向のはずだ。発表記事は単に氏名を羅列しただけのものだが、なぜかしら、何者かになってやるという応募者の激しい気概を感じる。
115年も前のことなのにね、胸が熱くなるよね、ご同輩!
連載「文芸公募百年史」
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